東洋文庫 ラッフルズ伝 (1943)

著者である新夫清三郎による序文の一部から紹介する。

日清戦争で日本が台湾を取得した当初、日本はアルジェリアにおけるフランスの植民政策を台湾に適用しようとして失敗し、後藤新平が民政長官としてイギリスの植民地政策を導入して成功した。(略)しからばイギリスの植民地政策とは何か?という問題を模索しているうち、私はラッフルズに遭遇したのである。》

このような動機で著者は二年間ラッフルズの研究に没頭したという。学習院大学図書館に通い、東大研究室、東洋文化研究所、東亜研究所、慶大研究室の助力を得て本書が完成したという。ところが戦後になって重要な文献が九州大学に所蔵されていたことが判明した。とりあえず巻末の文献に追記したという。

本論では東インド会社から説き始められ興味深い論説が続く。オランダの東洋進出に刺激されたイギリスがエリザベス女王の特許の元東インド会社を設立しオランダに対抗する。当時喜望峰航路とマゼラン海峡航路を独占していたのがローマ法王の認許を有するスペインとポルトガルであった。北西航路の開拓に失敗したイギリスは1589年スペインの無敵艦隊を撃破することによって喜望峰航路による東洋貿易が現実のものとなる。念願だった毛織物の輸出とマラッカの香料の輸入がとうとう可能になったのである。

まあそんな感じの東インド会社ラッフルズが臨時雇いとして就職する。ラッフルズ一家はわりと貧乏だったのである。

その後のラッフルズの活躍は色々な所で語られているので省略する。例えば、東洋文庫 アブドゥッラー物語 あるマレー人の自伝(1849)にもラッフルズは格好良く登場している。