東洋文庫 モンゴル帝国史 1(1824)

本書はドーソンによるオランダ語で書かれた原著の全訳である。訳者は佐口透氏である。この本は事実の記述は勿論のこと、関係の見透しにも秀れている。一部を紹介する。

《第六章

セルジューク政権の廃墟の上に建てられたホラズム帝国は、いくたの国家を合併して、次第にその領域を拡大し、スィフィーン河からイラク・アラビーとアゼルバイジャンに至る地域に広がった。

(略)このようにして、トルコ民族がイスラム諸国に入寇する以前に、トルコ族奴隷がイスラム諸国において有力な人物になっていたことがわかる。ペルシアは11世紀の中頃カスピ海とスィフィーン河との間に広がる砂漠状草原から出てきたトルコ族遊牧民のオグズ族によって征服された。

この時代より、ペルシアとその西隣諸国の歴史はただセルジュークトルコ族の軍事的遠征、強奪行為、荒廃と、最後には内乱についての単調な物語にすぎず、それらトルコ族の首領たちは、地方行政権と軍隊指揮の全権を授けられて、まもなく、中世ヨーロッパの諸大公と同じ役割を演ずるようになった。王位継承の問題がおきるごとに、それは内乱のきざしとなり、自派のベイ(貴族)の援助で王位についた帝王は、君主権のかなり大きな部分をそれらベイたちの手に流すことを余儀なくされ、かくてセルジューク朝の帝国は十二世紀の末に至り、無政府状態の混乱の中に亡んだのであった。》

第七章ではチンギス・カンはホラズムを攻略する。

《(略)チンギス・カンは抵抗を受けることなく、スィフィーン河畔のオトラール付近に到着し、トランスオクシアナ侵略の準備をした。この地方はオクサス河のかなたに位しているため、イスラム教徒はマー・ワラー・アンナフルすなわち越河地方と呼んでいるが、この河とスィフィーン河との間に含まれていて、西は砂漠を隔ててホラズムと相対している。上古よりこの地方にはトルコ民族が住み、八世紀のはじめにハリーファの統治下にはいって、かれらはマホメットの宗教を採用した。その諸都市には多くのペルシア人とアラビア人が来て居を定めており、モンゴル族の侵冦の当時には繁栄した状態にあった。トルコ族遊牧民はその家畜とともに、この地方からカスピ海まで広がる砂漠状平原を往来していた。》

この後モンゴル軍はオトラール、ブハラを陥落させ防備が万全だったサマルカンドも陥落させ住民を皆殺しにする。ホラズムのスルタンであるムハンマドは戦地から遠く離れており、まずガズナへ退却しいざとなったらインドへ逃亡することを考えていた。だが皇子のジャラール・ウッ・ディーンだけはモンゴル軍とジャイフーン河の防衛線で戦うことを主張したがスルタンはこれを一蹴して、バルフ、ニーシャブールと逃げ、さらにバクダッド街道を爆走するがついにマーザンダラーン地方の小島で病死したのである。

以下面白すぎる内容が続くが長くなるのでこの位にする。