東洋文庫 国文学全史 1 (1905)

著者の藤岡作太郎は緒言でこのように述べている。

《本篇は、数年前、文科大学において講じたる国文学史をもととして、これを簡明に叙し、更に一二節を加えたるものなり。夏冬の休暇毎に、逗子に、能州和倉に、豆州伊東に、材料を携えゆきて筆を執り、最後に大磯にて総論を綴りそえぬ。人こそ知らね、この書を繙くにつけて、われには別に過ぎ去りし客寓の追懐の忘れ難きものあり。》

結構優雅な仕事ぶりである。羨ましい限りだが本文の一部を紹介する。

《第七章 貞観より寛平までの歌人(下)ーーー遍昭、小町等

梅蕾は春に先だちて綻ぶ、貞観、元慶の頃は既に古今時代の魁をなし、和歌の勢いまさに漢詩と相如くに至れり。この際に当りて、歌人の著名なるもの、業平のみにあらず、僧正遍昭文屋康秀大友黒主藤原敏行、女性には、小野小町、やや下りては伊勢御ありき。 僧正遍昭は俗名を良岑宗貞という。有名なる良岑安世の子にして、実に桓武の皇孫なり。任明天皇の知遇を得。従五位上蔵人左近衛少将に至る。青春心は花の如く、若殿原上臈達の間に伍して、ふうりゅう好色の名あり。五条あたりのあばら屋に雨やどりし、若葉の羹に舌打ちして、その家の娘と一見相思の情に堪えざるが如き、一年の五節に、天つ風、乙女の姿しばし止めよかしと望めるが如き、その性行を察するに足る。》

《貫之が近古の名家を評するや、業平、遍昭、黒主、喜撰、小町を数え、後世にこれを六歌仙と仰ぐ。その中もとより巧拙の別あり。殊に不倫の感あるは喜撰法師なりとす。貫之の評に、宇治山の喜撰法師は詞かすかにして、始終たしかならず、いわば秋の月を見るに暁の雲にあえるが如しと称すれども、今その当否を験すべき喜撰の詠を得るに難く、ただ一の「わが庵は都の巽」の作あるのみ、この唯一の詠もまた「うべ山風」の類にして見るに足らず。或いは思う、不幸にしてその作の湮滅せるなり。(略)喜撰を削りて、これに代わるべき人を求めよとならば、余は、

秋きぬと目にはさやかに見えねども、風の音にぞおどろかれぬる。

と初秋の感を一首にいい尽くしたる、藤原敏行を選ばざるべからず。されど貫之がかれを加えざりしは、やや前述の人より若く、殆どおのれらの時代相接したればなるべし。(略)》

以上わずかばかりの引用だが、読んでみるとなかなか面白かった。