小説 天北原野 (11)

あき子の末っ子の澄男の小学校入学祝いの席での会話である。

《「ところで、この戦争はどういうことになるのかな」 達吉が背を屈めて独酌しながら言う。 「そりゃあ、勝つにきまってるさ」 伊之助も上機嫌だ。電灯に頭がてらてらと光る。 「勝つかね。ガダルカナルで、日本は敗れたんだよ。おやじさん」 骨張った頬に皮肉な笑いを浮かべる。 「負けたんじゃない、ありゃ撤退だ」 「撤退?あれはね、言ってみりゃあ、負けたってことですよ。日本って国はね、言の葉の国でね、いろんな言い廻しがあるんだ。負けるなんて言葉を使えば、士気にかかわるからね」 去年あたりから、達吉は飲むと饒舌になった。貴乃とあき子は黙って男たちの話に耳を傾けている。》

この頃の国内の様子である。

《一昨年の12月8日、アメリカと戦争を始めて以来、何かは知らないが、世の中に活気が出た。中学生達はゲートルを巻き、きりりとした姿で、きびきびと歩く。女たちも大日本婦人会を組織して、たすきをかけ、時局講演を聞いたり、防空演習をしたり、動きが活発になって来ている。女学生だってズボンをはき、婦人たちもモンペ姿だ。本州や北海道では外米を配給されているという。が、樺太だけは別天地で、まだ米にも酒にも、そう不自由を感じていない。戦争は、樺太から遠い所に起きている出来ごとだった。》

ラジオからは時折大本営発表が流れてくる。

《次の間のラジオで歌謡曲を放送している突然、それが軍艦マーチに変わる。みんな口を閉じた。勇ましい軍艦マーチが、何十秒か流れて止んだ。

「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申し上げます」

切迫したアナウンサーの声に引きつづき、自信に満ちた歯切れのよい声が流れた。

大本営発表。南方フィリピン沖の上空にて、わが戦闘機三機は、アメリカの戦闘機五機を撃墜せり」

再び歌謡曲が流れる。》

内地の状況とよく似た感じだが、ここは満洲並みの危険度があることに誰も気づいていないのである。