残りの数ページを読んでみたら、思った以上の酷たらしい結末だった。サトペン大佐の態度にキレたワッシがサトペン大佐を殺す。この後のことに思いを巡らせたワッシは逃げることもままならぬと思い、全部終わらせる壊滅的行動をとる。その時の彼の思考を精読する。
《いまや彼は、馬や鉄砲や犬を持って集まってくる人間を予感し、感知したような気がしたーー好奇心の強い人間と復讐心の強い人間ども。彼らはサトペンと同類の人間であり、ワッシ自身がまだブドウ棚までしか屋敷に近よれなかった時分に、サトペンのテーブルのまわりに寄り集まった人たちであった。(略)ーーそれは讃美と希望の象徴にして、また絶望と悲哀の手先となった人たちであった。 そういう連中こそ、彼が避けてにげだすものと期待されていた人間であった。だが、彼にはさける必要も、走りよる必要もないように思われた。かりに逃げだしたとしても、けっきょくは、ただ一組のいばりかえった悪意のある幻影から、それとよく似た別の一組の幻影へと逃げまわるにすぎないだろう。なぜなら、かれらはみな、彼の知っているかぎりのこの世では、どこでもまったくおなじ種類の人間どもだからでだ。それに彼は年老いている。逃げたにしても、遠くへは逃げられないほど老いさらばえている。いかに一生けんめい、いかに遠くまで逃げても、けっして彼は彼らからのがれきることはできないのだ。六十歳になんなんとする老人には、そんなに遠くまで逃げることなどできない。こういった人間どもが生きていて、生活の秩序と規制を定めているこの地の果てを越えてのがれるほどに、遠くまで逃げ去ることはできない。》
これは何となく今でも通用しそうな考え方ではある。文明社会の外ならという発想はよく見られるからである。