映画 真珠の耳飾りの少女 (2003)

フェルメールの有名な絵画『真珠の耳飾りの少女』ができるまでをヴィジュアル的に忠実に描いた映画である。人物の服飾や家屋はその頃の絵画から再現されているが、フェルメールの伝記が無い事から、事実関係は全くの創作であると言える。

映画ではタイル職人の家庭で育った栗毛の少女が使用人としてフェルメール家に奉公するという設定である。当時の使用人の通例として少女はボンネットをかぶって働いているのだが、部屋の中で淡い光が射した様はまるで宗教画の様に見える。『失われた時を求めて』から引用するとプルーストの使用人だったフランソワーズもプルーストの目にはこう映っていた。

《なにしろ朝の5時から台所に立ち、同じ形のまばゆい丸ひだでできているから素焼きの陶磁器と見まがうボンネットの下に、荘厳ミサに出かけるときと同じように美しく化粧した顔がある。なにごとにも立派にこなし、元気な時も体調不良のときも馬車馬のように働き、それでいて物音一つ立てず、なにかしている気配がない。》

いよいよフェルメールは少女の絵を描き始めるが、耳が見えないと言ってボンネットを取らせ、代わりに青色のターバンを巻かせるのである。その時大きな真珠の耳飾りを付けさせた。

日本のテレビドラマ『おしん』では貧困が強調されているのに対し、こちらではフェルメール家の財政状況やパトロンとの関係を描きながら、特に悪い結末になるということもなく淡々と終了した。映画の場合は特に後味が重要なのである。