岩波文庫 存在と時間 (5)

正直に冒頭に書いてしまったので、この後は手を替え品を替え同じような事を論述しているに過ぎない。比喩を用いたり、逆説風に論じたり、言葉を変えたり、時にはプラトンデカルトを引用し、ある部分ではソフィストの言辞を批判しているように見えるのだが、ハイデガーの本質はソフィストそのものである。これだけの言辞を費やして一歩も進まなかったのだから。

P89 《仕上げられるべき問いにおいて、問われているものは存在である。つまり、存在者を存在者として規定し、存在がどのように究明されるにせよ、存在者をがそれにもとづいて、そのつどすでに理解されているものである。存在者の存在は、それじしん一箇の存在者で「ある」のではない。存在問題を了解するさいの哲学的な第一歩は「いかなる物語も語らない」ことにある。すなわち、存在者を存在者として規定するのに、その存在者の由来をたどって他の存在者に連れもどすことはしない、ということだ。それではまるで、存在がなんらか可能な存在者という性格を有することになってしまう。問われているものとしての存在は、かくて、ある固有な提示のしかたを要求する。それは、存在者を発見するしかたとは本質的からしてことなっている。したがって、問いもとめられているもの、つまり存在の意味も、固有の概念的構成を要求することになるだろう。それもまた、存在者がその意義にそくして規定されたありかたへともたらされる概念に対して、その本質からしてきわだって区別されることになる。》

ソフィストの書いた文章を追いかけるよりは、自分が本物の哲学者になって存在の意味を極めることの方が有益である。手近な問題としては、『閉店中の蕎麦屋蕎麦屋なのか』、『空蝉は存在しているのか』、『穴とは何か』、『鳥は何故美しいのか』、『哲学によって存在を担保しなければ全ての学問がひっくり返るというのは本当なのか』くらいが挙げられる。