BSドキュメンタリー 文化大革命50年 知られざる”負の連鎖”~語り始めた在米中国人 (2016)

  ペンシルバニア州カーライル在住の元紅衛兵の楊瑞(65)は東方紅のレコードを掛けて当時の高揚した心情を思い出す。大躍進によって15年でイギリスを追い越すと豪語した毛沢東は失脚し劉少奇国家主席となる。劉少奇は着実に経済を回復させるが毛沢東は学術、教育界で巻き返しを図る。これが文化大革命(1966)である。ブルジョア思想を追放せよとの号令に若い世代が狂喜したと言う。100万人の紅衛兵天安門に集まり軍服姿の毛沢東を見て感動する。毛沢東紅衛兵の力で党幹部を倒そうと目論んでいたが紅衛兵の矛先は違う方へ向かった。

  亡命作家の鄭義(69)は当時北京の名門高校の学生だったが紅衛兵の標的になる。父が資本家だったからである。元富農、元国民党とその家族も標的となった。校内の紅衛兵が彼を「犬の鄭」と呼び革ベルトで殴り続けたと言う。楊瑞は暴力に加わらなければ自分がやられると思ったと言う。彼女の見解はちょっと風変わりである。ニューヨーク在住の徐友漁(69)は父が元国民党だった。友人がそっぽを向く中、教室で毛沢東語録を一日中勉強したと言う。だが毛沢東がいろんな階級にも革命の担い手になれと宣言するとそれまで迫害されていた階級も造反派として革命を開始する。

  メリーランド州ボルチモアに住む遇羅文(68)の兄は「出身論」を書き出身により虐げられる社会を批判し脚光を浴びた。当時の農村では富農や地主の子供は結婚相手が見つからず仕事でも差別を受けていたと言う。 劉国凱(71)は広東の工場で働いていたが幹部と揉めて造反派とみなされるがうまく名誉を回復した。1967年1月毛沢東はある指令を出す。職場で既存の幹部を打倒し実権を奪えという。これを奪権という。これが全国各地で行われるが今度は誰が権力を引き継ぐかで争いが起こる。徐友漁は工場内での争いに巻き込まれる。相手側は銃で撃ち始めたが人数で勝る徐側が勝利する。すると今度は勝利した側が分裂して争い始めるのである。

造反派同士の争いを小説に書いたのが鄭義である。肉親を殺された恨み、集団心理の恐ろしさを描いている。中国国内は内戦状態になり劉少奇も造反派に吊し上げられ毛沢東の目論見は成功する。

革命委員会が作られてからは死者が激増する。革命委員会は軍、党幹部、造反派代表からなりこれに入れなかった造反派は粛清された。第29中学校では造反派がバリケードを築いて立て籠もっていたら軍によって殲滅されたという。詳しく見て行くと農村部での粛清が多い事がわかる。農村に伝わった命令が曲解され村で民兵が組織され罪の無い者も虐殺されたという。

  1976年に毛沢東が死去すると10年にわたった文化大革命も終わりを告げる。当事者の中には文化大革命の事を災いと言う人もいれば楊瑞のように歴史の新しい第一歩と感じていた人もいる。災いと言うのは後付けの解釈とも言えるがまあわかる人にはわかるのだろう。