映画 真珠の耳飾りの少女 (2003)

フェルメールの有名な絵画『真珠の耳飾りの少女』ができるまでをヴィジュアル的に忠実に描いた映画である。人物の服飾や家屋はその頃の絵画から再現されているが、フェルメールの伝記が無い事から、事実関係は全くの創作であると言える。

映画ではタイル職人の家庭で育った栗毛の少女が使用人としてフェルメール家に奉公するという設定である。当時の使用人の通例として少女はボンネットをかぶって働いているのだが、部屋の中で淡い光が射した様はまるで宗教画の様に見える。『失われた時を求めて』から引用するとプルーストの使用人だったフランソワーズもプルーストの目にはこう映っていた。

《なにしろ朝の5時から台所に立ち、同じ形のまばゆい丸ひだでできているから素焼きの陶磁器と見まがうボンネットの下に、荘厳ミサに出かけるときと同じように美しく化粧した顔がある。なにごとにも立派にこなし、元気な時も体調不良のときも馬車馬のように働き、それでいて物音一つ立てず、なにかしている気配がない。》

いよいよフェルメールは少女の絵を描き始めるが、耳が見えないと言ってボンネットを取らせ、代わりに青色のターバンを巻かせるのである。その時大きな真珠の耳飾りを付けさせた。

日本のテレビドラマ『おしん』では貧困が強調されているのに対し、こちらではフェルメール家の財政状況やパトロンとの関係を描きながら、特に悪い結末になるということもなく淡々と終了した。映画の場合は特に後味が重要なのである。

映画 U.M.A レイク・プラシッド2 (2007)

見残していた映画を楽しく観ているところである。もとより世の中にある映画を全て見ようとすると、どんな人でも寿命を超えてしまうのでそこまでは考えていない。僕の場合はせいぜい2000本くらいである。

さて見始めると事件としては時系列において全く無駄がないし、人間の本能に関わる内容なのか、さほど苦労せずに観ることができた。湖面に映る影からさぞかしグロテスクな生物かと思いきや愛嬌のあるクロコダイルだということがわかってくる。対応する保安官のキャラクターが軽妙かつ誠実なので頼りになるかと思ったら、次々と人が食われて行く。無警戒なこと甚だしい。最後にスリラー風な展開もあったが、保安官と元妻、息子と未来の彼女が無事でハッピーエンドを迎えることが出来た。

この様な作品を大真面目に商業ベースで作れる国は今のところ米国だけだと思う。

岩波文庫 アンティゴネ (前5世紀)

オイディプスの死後、戦争が始まって二人の息子が相討ちになって死んだ。新しく王になったのはあのクレオンである。物語の発端はクレオンの出した命令である。攻めてきた方の息子のポリュネイケスの死体を埋葬せずに道端に放置し、これを埋葬したものは死刑にするというものだ。親族として平穏に暮らしていたアンティゴネはこの仕打ちに激怒し、自分は死刑になっても兄を埋葬すると言い出したのだ。

人と人がこのようにぶつかり合うのは仕方がないにしても、調停や裁判のような第3者が入れば落とし所が何とか出てくるのだが、今回は両者とも一歩も譲らなかった。アンティゴネは刑場に引かれて行くがこの時の哀歌の調べが美しいので紹介する。

アンティゴネ : 見ておくれ、祖国の人たち、

最後の道を歩み行く私を。

これを限りの、

最後の陽の光を

仰ぐ私を。人みなを眠らせる

冥界の神が、生きながら私を

アケローンへの岸へと

連れて行く。婚礼の歌に

見送られもせず、花嫁の

部屋に、言祝の歌も響かず、

アケローンに嫁ぎゆく。

(略)

父祖の神々にかけて訊く、

まだ死んでもいない、目の前にいる私に、

なぜ酷いことを言うのです。

ああ町よ、町の

分限者のそなたたち、

ディルケーの源よ、

兵車を誇るテーバイの聖域よ、

せめてそなたらに見届けてほしい。

親しい人たちの哀悼も受けず、いかなる掟ゆえか、

世にも珍しい墓の、築き成したる

石組へと、私は向かう。

何と不仕合せな。

この世の人ともあの世の人とも隔てられて。》

霊能者テイレシアースも出てきてアンティゴネ側につくが、クレオンが翻意した時はもう遅かった。神の怒りの仕業か、関係者が3名あの世に行ってしまったのである。

これはソポクレスのオイディプス三部作のなかでも格調の高い作品である。もし上演するなら格調の高い演出で観たいものである。無ければやっぱり岩波文庫のテキストから想像するしかない。

映画 バード (1989)

音楽ファンなのに音楽映画を避けてきたのは観るのにエネルギーが要るからだろう。今回も長さに苦しんだが何回かに分けて観た。

これは簡単に言えばバードことチャーリー・パーカーの伝記映画である。題名から想像がつく。クリント・イーストウッドの監督・制作によるものである。エピソード的には幼少期、青年期、全盛期、晩年とほぼ網羅されており、古き良き時代と演奏が再現されたものになっている。

カンザスシティから出てきてニューヨークで一流ミュージシャンになったチャーリー・パーカーはチャンという伴侶を得て、ある程度生活を確立するところまで来るが、その後転落する。自殺未遂や精神病院でのやりとり、ディジー・ガレスピーとの交流が描かれている。演奏シーンは楽しいものだったが、どうもチャーリー・パーカーの実演の音源と新録音の伴奏がミックスされているらしい。監督の意気込みとこだわりが感じられる。

チャーリー・パーカーがすぐれた演奏家兼作曲家であることがこれを観てよくわかったのである。

岩波文庫 コロノスのオイディプス (前五世紀)

コロノスとはアテネ郊外の森に隣接した地で、アテネテセウスの統治下にある。自ら盲目になりテーバイから追放されたオイディプス王は娘のアンティゴネに手を引かれて放浪の旅に出るが、最後の地コロノスの森にやってきた。このような会話がある。

オイディプス

めしいのこの老人の娘、アンティゴネよ。われらが着いたこの土地は、何というところ、何という人たちの町であろうか。このさすらい人オイディプスを、今日のこの日、誰が迎え、乏しい喜捨を投じてくれることか。わずかなものをおれは乞い、それよりももっとわずかなものを得るだけで、おれは満足するのだ。忍従、これを数々の不幸、おれが共に生きて来た長い年月、最後に気高い心が教えてくれるからだ。人間の土地でもよし、坐るところがあれば、娘よ、おれをとどめて、坐らせてくれ。われらのいるのはどこなのか、尋ねたいのだ。他所者のわれらは、土地の者から教わって、その言うとおりにしなければならないのだからな。

アンティゴネ

お気の毒なお父さま。町を囲む塔と城壁は、見たところ、遠くにございます。この土地は、明らかに、尊いところ、桂、オリーブ、葡萄の木が生い繁り、その中では、ナイチンゲールが飛び交うて、うるわしい音をひびかせている。さあ、のこの天然石にお座りなさいませ。お年寄には長い道中でございました。》

しばらくすると、町のものがやって来て、ここから出て行けと言うが、放浪者の素性を知ると驚き、対処に困るのである。やり取りの中でオイディプス王の弁明が聞ける。

オイディプス

名声とか、うるわしい評判とかは、それがただのむなしい噂だけに終わったならば、何の益に立とうぞ、人々がアテナイこそもっとも神を畏れ敬う町、この町のみが不正に悩む他所人に保護を与え、この町のみが助ける力をもっていると噂しているからとて。おれの場合はどうだ。お前たちはこの座からおれを立ち去らせておいて、それから追い払おうとしているのだ。それもただおれの名が怖しいばかりに。いいや、たしかに、このおれ自身とおれの所業が怖ろしいのではない。そのためにお前が恐れている、おれの父あるいは母のことを物語ることが許されるなら、おれの所業は、おれがやったと言うよりは、おれのほうが被害者なのだ。 (略)反対に、おれの加害者たちは(父母はおれを殺すつもりで、足にピンを貫き通し、山中に棄てさせた)、何もかも知っていて、おれを殺そうとしたのだ。》

とうとうテセウスが登場して、彼らの保護を約束する。オイディプスは中々口がうまいのだ。さらに、もう一人の娘イスメネ、叔父のクレオン、息子のポリュネイケスが次々と現れてオイディプスに言いたいことを言う。最後にオイディプステセウスに見護られて森の奥の聖地で地に潜り、守護神となったのである。以上がこの物語の顛末である。

映画 ラウンド・ミッドナイト (1986)

出演陣はハービー・ハンコックデクスター・ゴードンウェイン・ショーターと豪華だったが主役がミュージシャンだったせいか演技にキレのない映画だった。

ある伝説のジャズミュージシャンがパリに渡りしばらく演奏活動したのち、ニューヨークで死去するという、ああ、あの人かという感じの映画である。チャーリー・パーカーバド・パウエルが当てはまるが、本作はエピソードなどから後者のようである。

さてこの映画ではデクスター・ゴードンが主役だったが、レスター・ヤングに当てはめるには時代が違うし、期待されたビバップの音楽も登場しなかった。音的にはV.S.O.P.クインテットのような音楽が出てくるのである。ハービー・ハンコックバド・パウエル役をやれば良かったのにと思える映画である。