東洋文庫 懲毖録 ちょうひろく (1600年頃)

本書は李氏朝鮮の高官であった柳成龍が記した文禄・慶長の役の詳しい記録である。日本からの使者との折衝および朝鮮側の鈍い反応、日本の驚くほど迅速な侵攻、緒戦で打ち破られると恥も外聞もなく逃げ出してしまう朝鮮正規軍の振る舞いについて述べられている。一方、国王はというと鴨緑江に接する義州まで逃げて明軍の救援を待つという有様である。その中にあって柳成龍はなかなか有能な高官である。そのことがよくわかるような本文の一部を紹介する。

夕方、所串駅に到着したが、吏卒は逃散して影も形も見えなかった。軍官をやって村落を捜させたところ、数人を連れて戻った。私は、力を込めて諭した。「国家が、ひごろお前たちを撫養してきたのは、こんにちの用に役立てんがためである。どうして逃げ隠れするのか。しかも、明国の救援兵が今にもやって来るという、まさに国事危急の時である。今こそ、お前たちが、力をつくし功を立てる秋である。」

そして、白い冊子一巻を出し、先ずやって来たものたちの姓名を書き、これを示して言った。「後日、これをもって功労を評定し、論賞のことを上奏しよう。ここに記録されていない者は、事が定まったのち、一々調査して処罰をする。免れる事はできないぞ。」

ややあって、来集するものが相続いた。みな、「私は、事情があってしばらく出かけていましたが、どうして役目を避けましょうか。どうか名を冊子に書き入れてください。」と言った。私は、人の心を団結させられることを知り、ただちに公文書を各処に送って、この例を挙げ、考功冊を置いて功労の多少を書き入れて、報告の根拠として施行させた。

平壌を占拠した日本軍は明国軍と朝鮮軍を打ち破り沈惟敬と和平交渉に入る。和平交渉は決裂した感じだが秀吉の死によってさらなる侵攻は中止となり全軍撤退した。