クロスオーバーイレブン

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  7月に入り関東地方は猛暑に見舞われているがこういう日はエアコンを入れてクロスオーバーイレブンでも聴いているのがいい。音源は復刻放送をmp3化した物を聴いている。当時の選曲者今泉洋が中級コンポとロックのアルバムがあれば充分オーディオの楽しみが得られると述べていたのを思い出す。

その通りと思う。日が傾いたら図書館に行って夕食の後は散歩しよう。

 

 

 

 

 

 

 

東洋文庫 F・A・ マッケンジー 朝鮮の悲劇 (1908)

  著者の F・A ・マッケンジーはカナダ生まれでロンドン・デイリー・メイル紙の記者として活躍した人物である。本書は著者が東アジア滞在中に開国前の朝鮮から20世紀初頭までの出来事をまとめたものである。朝鮮に対する並々ならぬ関心の高さが伺える。

  開国前ではジェネラル・シャーマン号事件、開国後では壬午事変、甲申事変、日清戦争閔妃謀殺について簡潔に記述し、いよいよロシアが登場してくる。ロシアはヨーロッパ最強の帝国として着々と朝鮮進出を進めていたが日本が正面から立ちはだかる事になる。本書ではロシアと日本が朝鮮支配をめぐって対立し日露が開戦したところまで記述するがいきなり1905年に飛んでいる。旅順攻略、日本海海戦の記述や海外の反応についてまるきり省略している。その後は日本の朝鮮支配の変容及び義兵闘争について詳述している。

  著者は一貫して一部日本の功績を認めるが植民地支配については批判的な態度を貫いているようだ。元々中国を日本より上、朝鮮と日本を同等と見ている感じがする。本書が省略した部分は著者にとっては納得の行かない出来事で筆が進まなかったためだろうと推測する。いずれにせよ本書は資料をまとめた様な生ぬるい成書よりも当時のジャーナリズムの生のレポートに近く、読者の想像力をかき立ててくれるような本である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BSドキュメンタリー We want our country back 大英帝国を取り戻せ! (2015)

  2015年5月極右政党ブリテンファーストはイギリス中部の町ダドリーでモスク建設に反対する抗議行動を起こす。デモ行進を行い副党首のジェイダ・フランセンが演説する。それらを動画に撮りSNSに投稿する。今回BBCが4ヶ月間密着取材する。

  ブリテンファーストは6月27日にイスラム教徒の町ルートンでデモを計画する。党首のポール・ゴールディングが車でルートンの街を行く。道端で十字架と横断幕を見せて又車で行くとイスラム教徒の住人と口論になる。口論の様子はSNSにアップされた。ジェイダもポールもイスラム教徒に命を狙われていると言う。

  住民の申し出を受けた警察は二人を事情聴取した後デモを阻止しようと裁判所に集会差し止めを申し立てる。イスラム教徒の若者デウードはブリテンファーストを批判する。デウードは地元の若者が過激主義に染まらない活動をしていると言う。ブリテンファーストの動画が拡散する事に危機感を抱いているようだ。一方BBCはジェイダの事を過激主義に染まった白人だと見ている。

  ブリテンファーストはハラル撲滅運動も展開する。ハラル製品には2.5%のザカートがかけられていてその一部はテロ活動に流れているとポールは主張する。ハラル製品の肉はアラーの神に捧げられたものであるとジェイダは主張する。これにはBBCも批判的だ。

寄付を募り弁護士を雇う事が出来た二人は差し止め命令を何とか回避する事ができたがルートンでのデモは低調なものだった。警察も心得たものでデモ隊に工業団地内を行進させた。

  プライベートも取材する。二人は夜に人目を忍んでビリヤード場で遊ぶ。ポールはイスラム教徒の人口増加と将来起こるであろう内戦の勃発について語る。

  ロザラムを訪れる。ここにはイスラム教徒のコミュニティがあり1997年から2013年の間に1400人の子供がパキスタン系の住民に性的虐待を受けたという事件があったところである。9月5日にデモを計画していると言う。町はすべてのタクシーに監視カメラ搭載を義務付け条例を制定したが拒否する運転手も一部にいる。ジェイダと運転手が口論する。その後ジェイダからBBCに取材拒否のメールが届いた。
  BBCの取材班がロザラムのデモの日に現場を訪れるとポールは迷惑そうな顔をし警備員がやって来て取材班を追い払う。怒ったBBC取材班はデモの低調さを皮肉りブリテンファーストも他の極右政党と変わらないと締めくくった。

  まあこれは意図的なものを感じるドキュメンタリーだったが、ダドリーでのジェイダの演説で”Every single mosque build in this country will affect evrery single one of us!”と言ってたのが印象に残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 バロン (1989)

  この映画は少々複雑でありホラ吹き男爵の冒険がストレートに語られる訳ではなく年老いて没落した男爵が自分の劇の上演中に劇場に乱入する事で物語が始まって行く。上演された劇のタイトルは "The adventure of Baron Munchausen"である。

  町はすでにトルコ軍の攻撃にさらされていた。男爵は自分がトルコのスルタンと賭けをして勝ったせいで怒ったスルタンが攻撃しているのだと言う。男爵の言動はまるで痴呆老人だが劇団の少女サリーは信用する。劇場も砲撃を受け崩壊するが男爵は婦人の下着で作った気球に乗って町を脱出する。気球にはサリーが勝手に乗っておりここからは少し不思議の国のアリスみたいな展開になる。

  月では月の王を怒らせ、エトナ火山では神であるバルカンを怒らせ最後は海の怪獣に飲み込まれる。ここに来るまでの間に男爵はかつての部下たちと再会しいよいよトルコ軍と戦う事になる。部下たちの活躍で首尾よくトルコ軍を撃退し男爵は町に凱旋するのだが町の防衛軍の指揮官が男爵を狙撃し男爵は息絶える。とここまで語った男爵は町の人々と城門に向かい開門した。するとそこにはトルコ軍が撤退した後の残骸が残されていたのだった。

  男爵は女たらしでエピソードには下ネタがありシュールな笑いが各所に仕込んである。大人が観てはっとする様な作品であり子供向きでは無い。

 

 

 

 

 

 

 

BSドキュメンタリー 文化大革命50年 知られざる”負の連鎖”~語り始めた在米中国人 (2016)

  ペンシルバニア州カーライル在住の元紅衛兵の楊瑞(65)は東方紅のレコードを掛けて当時の高揚した心情を思い出す。大躍進によって15年でイギリスを追い越すと豪語した毛沢東は失脚し劉少奇国家主席となる。劉少奇は着実に経済を回復させるが毛沢東は学術、教育界で巻き返しを図る。これが文化大革命(1966)である。ブルジョア思想を追放せよとの号令に若い世代が狂喜したと言う。100万人の紅衛兵天安門に集まり軍服姿の毛沢東を見て感動する。毛沢東紅衛兵の力で党幹部を倒そうと目論んでいたが紅衛兵の矛先は違う方へ向かった。

  亡命作家の鄭義(69)は当時北京の名門高校の学生だったが紅衛兵の標的になる。父が資本家だったからである。元富農、元国民党とその家族も標的となった。校内の紅衛兵が彼を「犬の鄭」と呼び革ベルトで殴り続けたと言う。楊瑞は暴力に加わらなければ自分がやられると思ったと言う。彼女の見解はちょっと風変わりである。ニューヨーク在住の徐友漁(69)は父が元国民党だった。友人がそっぽを向く中、教室で毛沢東語録を一日中勉強したと言う。だが毛沢東がいろんな階級にも革命の担い手になれと宣言するとそれまで迫害されていた階級も造反派として革命を開始する。

  メリーランド州ボルチモアに住む遇羅文(68)の兄は「出身論」を書き出身により虐げられる社会を批判し脚光を浴びた。当時の農村では富農や地主の子供は結婚相手が見つからず仕事でも差別を受けていたと言う。 劉国凱(71)は広東の工場で働いていたが幹部と揉めて造反派とみなされるがうまく名誉を回復した。1967年1月毛沢東はある指令を出す。職場で既存の幹部を打倒し実権を奪えという。これを奪権という。これが全国各地で行われるが今度は誰が権力を引き継ぐかで争いが起こる。徐友漁は工場内での争いに巻き込まれる。相手側は銃で撃ち始めたが人数で勝る徐側が勝利する。すると今度は勝利した側が分裂して争い始めるのである。

造反派同士の争いを小説に書いたのが鄭義である。肉親を殺された恨み、集団心理の恐ろしさを描いている。中国国内は内戦状態になり劉少奇も造反派に吊し上げられ毛沢東の目論見は成功する。

革命委員会が作られてからは死者が激増する。革命委員会は軍、党幹部、造反派代表からなりこれに入れなかった造反派は粛清された。第29中学校では造反派がバリケードを築いて立て籠もっていたら軍によって殲滅されたという。詳しく見て行くと農村部での粛清が多い事がわかる。農村に伝わった命令が曲解され村で民兵が組織され罪の無い者も虐殺されたという。

  1976年に毛沢東が死去すると10年にわたった文化大革命も終わりを告げる。当事者の中には文化大革命の事を災いと言う人もいれば楊瑞のように歴史の新しい第一歩と感じていた人もいる。災いと言うのは後付けの解釈とも言えるがまあわかる人にはわかるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東洋文庫 加波山事件 民権派檄挙の記録 (1900)

  この本は明治17年加波山事件の詳細を綴った私家版で著者は野島幾太郎という栃木在住の民間人である。加波山事件とは河野広体らが当時の藩閥政府、県令三島通庸を憎み国家転覆しようと計画し爆弾を製造したが未遂に終わった事件である。

  爆弾係の鯉沼九八郎が製造中に誤って爆発させ負傷したため計画が露見する。遂に決起した河野広体、富松正安らが爆弾150個を具足櫃に入れ夜間の筑波山周辺の地を彷徨う。鯨村の袖山藤三郎を訪れ、次に麓村の勝田盛一郎を訪れる。勝田氏の勧めで加波山に立て籠もることになる。一行16名は9月23日加波山に到着し革命の旗を掲げる。次いで檄文を発するが暗殺を実行する前に立て籠もったのはどうやら失敗のようだ。この檄文を民家や参詣客に配布し警察分署の襲撃を企てる。河野らの一隊が爆弾を投ずると署長以下3名は逃げ去ったという。その後一隊は桜井村の酒造家を襲撃して帰って行った。

  翌日は警察隊も参拝客もやって来ず山は深閑としていた。一行は下山し勝田氏宅を訪れると銃声がし警官隊が来襲した。一行は逃げ出し岩瀬の山林に潜み謀議を重ねるが結論がでない。加波山に立て籠もるか宇都宮で暗殺を実行するか割腹して果てるか何れの道も厳しいものがあり、ついに解散する事に決定したのである。その後各々は官憲に次々と逮捕された。

  以上が本書に書かれている事件の概略である。高校日本史の資料にも秩父事件の周辺事件としてさりげなく名前だけ出ているが実は爆弾を使った要人暗殺テロ未遂という日本史史上初の重要事件なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

BSドキュメンタリー 帰りたるわが故郷は 〜”ビルマ難民” 25年目の帰国 (2016)

  一時帰国の途についたチョウ・チョウ・ソー(53)はミャンマーに降り立つ。1988年民主化デモが起こると翌月の軍事クーデターによりデモは鎮圧される。当時会計士だったソーは学生と共にデモに参加し3年後日本に政治亡命する。電気工の仕事を経てイタリア料理店で働き今は高田馬場ミャンマー料理の店を開いている。まあまあ成功した部類と言って良い。夫婦で帰国し学校を開く計画を立てている。現在のヤンゴンの発展は著しい。ソーは姉の家を訪れる。妻の実家に寝泊まりする。母校のヤンゴン経済大学を訪れる。学生はきれいな身なりをし政治に興味は無いという。帰国パーティーが開かれるがデモに参加した友人はいない。不審に思って友人に会い仲間の動向を探ると彼らは国会議員、都市開発局の幹部になっているという。大学の恩師はヤンゴン市長になっていた。皆賢明にも活動を控え政権に同調する道を選んだという。ソーは三週間の滞在を終え日本に帰っていった。 

  ラ・エ・マウン(48)は日本に移り住んで21年になるが民主化されたミャンマーに帰るかどうか決めかねている。マウンはコンビニと居酒屋で働き家族を支えている。子供は日本に残りたいと思っているようだがマウンは5年後に 国に帰るつもりのようだ。マウンは一時帰国し母のいる故郷シットウェーを訪れる。母は姉夫婦と暮らしている。家族はマウンの政治運動には反対だった。ヤンゴンと違いシットウェーは発展とは程遠い状態だ。かつての友人はラカイン州の州議会議員になっている。かつて通っていた高校を訪れる。マウンは成績優秀者だったという。子供達に将来の進む道を聞く。中にはアラカン軍の戦士になるという子もいる。だが中東と違って温和な感じの子供達だ。 

  後日ソーを取材すると今度は政治家を目指すという。ソーは首都ネピドーを訪れる。アラカン国民党の議員と面会する。今の政府は地方民に強権的だという。USPDの議員に会う。ソーは今度はUSPD側に立とうとしているようだ。 

  マウンは内戦の行われているラカイン州のチャウトを訪れる。避難民の村である。村ごと逃げてきたという。避難民が内戦の状況を語る。シットウェーに戻ったマウンは裁判所の前に集まった人権活動家を支援する人たちを目撃する。裁判を終えた人権活動家がカメラ目線で自身の主張を述べる。最後にマウンが総括する。将来を見据えたような言辞はさすがかつての成績優秀者だ。 

  現実はこのようにどんよりとしたものだが二人の亡命者を密着取材することでこのドキュメンタリーは成功していると言える。