女たちの王国 曹惠虹 (2017)

本書はふつうのルポルタージュとは違いある女性が作家デビューのために書き下ろした作品である。フェミニストを自称する著者はシンガポールで企業弁護士として激務の日々を送り、豪邸にポルシェに三つ星レストランと絵に描いたようなセレブ生活を楽しんでいたが、ある日夕陽を見つめているといろんな考えがよぎり引退を決めたという。

本書を書くきっかけは中国を旅行中に旅行雑誌でみかけたモソ人の母系社会の記事にフェミニスト魂がいささか高まったことによる。本文、写真ともに立派なものでクライアントに提出しても恥ずかしくない出来になっているが、男が書いたルポルタージュや学術報告のような素朴さが無いため本文は殆ど読めなかった。

東洋文庫 稿本 自然真営道 (1755)

江戸時代の医師、思想家である安藤昌益が記した書で思想のような医学のような内容がすっきり頭に入ってこない事が書かれている。刊本は三巻であるが出版されなかった稿本は百一巻もあり、再発見分九十二巻は東京大空襲で焼失した。現存しているのは十五巻であり、東洋文庫には三巻分が収録されている。

大序の巻の冒頭の部分を示す。

自然とは互性、妙道の号なり。互性とは何か。曰く、「無始無終なる土活真の自行、小大に進退するなり。小進木・大進火・小退金・大退水の四行なり。自り進退して、八気互性なり。」木は始を主どりて、其の性は水なり。水は終を主どりて、其の性は木なり。故に木は始にも非ず、水は終にも非ず。無始無終なり。火は動始を主どりて、其の性は収終し、金は収終を主どりて、其の性は動始す。故に無始無終なり。是が妙道なり。妙は互性なり、道は互性の感なり。是が土活真の自行にして、不教・不習、不増・不滅に自り然るなり。故に是を自然と謂う。

唯一分かり易かったのは弟子の仙確が師の人となりについて書いた文である。その現代語訳を紹介する。

ふだんの生業である医業では患者から貪ることは少なく、朝晩の飯と汁物以外にまったく特別なものは口にせず、酒も飲まず、妻以外の女と交わらない。道と関係ないことには、尋ねてもまったく語ろうとしない。逆に世のため道のためには、尋ねられなくても語り、片時も無益に過ごすことがない。自然真営道を実践して怠ることがなく、他人を褒めもしなければ誹りもせず、自慢もしなければ卑下もせず、上のものを羨まず、下ものを蔑むこともしない。要するに他人を尊ばず卑しめず、へつらわず貪らない。家計は貧しくもなければ豊かでもなく、借りもしなければ貸しもない。(略)

端的に言うと、無私の営み=直耕を実践し真営道を後世に伝えようとしたのが安藤昌益である。

映画 王になろうとした男 (1975)

大英帝国統治下のインドにおける冒険譚である。元軍人のドレイボットとカーネハンは銃をラクダに積んでインドの国境を越えカフィリスタンを目指す。目的はあるラージャの軍事顧問となり征服の手助けをして最終的にはその王国を乗っ取るというものである。首尾よく国境を通過した二人はカイバー峠を越えヒンズークシ山脈に向かう。このさらに先に秘境カフィリスタンがある。

この辺まで来るとアレクサンダー大王の遠征に類似していることがわかる。現代にわりと近い時代でこのような企てが実行できるのは大英帝国のごろつきならではの快挙である。さて周辺部族をあらかた征服した二人は宗教の最高権威であるセリムから呼び出しがかかる。会いに行くと偶然が幸いしてドレイボットはアレクサンダー大王の息子であると認定される。これで財宝も思うままに持って帰ることができカーネハンは大喜びである。

首尾よくロンドンまで持って帰り大富豪になったのでは話として面白みがないのか、この後ドレイボットがボロを出して処刑される事になる。絶世の美女ロクサネと婚姻を取り結ぼうとしたのが裏目に出たのである。一方カーネハンは九死に一生を得てラホールにたどり着き、事の顛末を北極星新聞の編集者に話しこの冒険譚は幕を閉じる。史実と考えるにはだいぶ無理がある話である。

GaN FET パワーアンプ4(3)

あれからTPH3208PSが二つ昇天した。一つは昼間だからいいだろうと思ってドライヤーを省略したら昇天した。もう一つは起動に成功したがすぐ不安定になって保護回路が作動した。どちらも+側の石が一つダメになった。

いくつか石を補充してまた実験する。

今度は金田式遅延回路を搭載してみた。0バイアスからスタートするのでこちらの方が優れている。動作はうまく行っているようだ。

映画 あの頃ペニー・レインと (2000)

キャメロン・クロウ監督の自伝的映画でアカデミー賞脚本賞のウィナーである。始まりは主人公のウィリアムをロースクール飛び級で入れて弁護士にしたがっている母親が登場し、それに反発した姉のアニータは弟にロックのLPを残して男と出て行くという展開である。

その頃のアメリカの保守層の家庭ではティーンエイジャーにドロップアウトとドラッグをそそのかすロックのような音楽は容認されていなかったようで日本の方がむしろ自由に聴けたようである。

たちまちロックの虜になったウィリアムは地方音楽誌の編集者と知り合いになり記事を書くうちにローリングストーン誌編集部から声がかかる。ある中堅ロックバンドの記事を書いて送るよう依頼されたまだ15歳のウィリアムは、母親をなだめすかしてバンドのツアーに同行するのだが、バンドのギタリストのラッセルとなんとか仲良しになれたものの美少女グルーピーであるペニー・レインと三角関係になって行く。

人気バンドの内情はみんなこのようなものだし特に新鮮味は無かったが結局ウィリアムはグルーピーの少女達に童貞を奪われ、ハイスクールの卒業は延期になり、ペニー・レインは自殺未遂、原稿はボツになったという話である。散々な目にあったウィリアムだが、空港のロビーで姉と再会し家に帰る。そこへペニー・レインに騙されたラッセルがやって来てウィリアムに謝罪し、なんとかハッピーエンドのような結末になる。

「ミュージシャンが音楽を愛する」というテーマの割には誰もそれほど音楽を愛してないんじゃないの?というシュールな疑問が生じる映画である。

テレフォン人生相談

テレフォン人生相談を1000本くらい聴いてみたが大体言わんとするところは、「自分の心を自分で埋められない人は(人に埋めて貰おうとする人は)悲惨なことになりますよ。」、「人は変えられませんよ。」、「年をとって欲を出すな。法律に則って粛々と処理してください。」などということになる。古今の思想史、宗教史でもあまり見かけない思想だなと思う。

東洋文庫に出てくる昔の人物は、むき出しの人間もいるし抑制の効いた人物もいて、あれこれ目一杯やっているなと感じる。