東洋文庫 楼蘭 流砂に埋もれた王都 (1931)

本書はスウェーデンの探検家スウェン・ヘディンが発掘した資料をもとにアルバート・ヘルマンが一般向けに書いたものである。発見した歴史的瞬間の記述がある。

《1900年の3月28日に、彼の一行はクルック・タグ南嶺の乾燥した谷間にあるアルトミッシュ・ブラークのオアシスを後にして、南方にひろがる砂漠の中を退屈な行進をつづけていた。この砂漠地は、いままで一行が旅したような高い砂丘をもつ東トルキスタン通有のものとはちがって、赤いテーブルか、あるいは骰子のような形をした土塊から成っていた。一行は、昔の湖床のなかに立っていることに、すぐ気づいた。螺貝の殻がひじょうにたくさんあり、枯れた白楊の林が広い帯のような形で、しばしば現れてきた。
この場所で、ヘディンは、むかし人が住んだことのあった痕跡として、小さな鉄の皿やたくさんの土器の破片を見つけた。土柱がごたごたと並んで立っているなかで、駱駝が通りぬけられるような道を探そうとして徒歩で出発した一行中の二人は、いきなり立ちどまってヘディンを呼びよせた。彼らは住居址をいくつか見つけたのだ!それはせいぜい午後三時のことであった。》

1913年のオーレルスタインの探険行の記述である。

《多くの墓が発掘されたが、それらからはほとんど損なわれていない二、三の死体(ミイラ)や絹あるいは毛で作った織物などの貴重な副葬品が見出されている。しまいにスタインは、東北側の堡城のところで、古代の「絹の道」の一部を発見したのであった。それは、この大きな城壁から発して古代の塩沢に沿い、ついにはそれを越えて、さらに遠方へとつづいていた。》

1927年以降のスウェン・ヘディンらの探検行の記述である。

《1930年から1931年にかけて、ノリンはN・アンボルトとともに、研究をターリム盆地の全域に拡げ、精密な地形測量を行なった。かくて、氷河時代にはターリム盆地にもっと広くわたって溜まっていたにちがいないと見られる巨大な内陸湖の輪郭が確認されたのである。》

以下はヘルマンによる推論である。

《じつをいうと、われわれはまだそのころの民族の実態を十分につかんではいないが、発見された文書類によって、どうやら推論を下してみると、こうはいえる。すなわち、イラン人の東方の一分枝であるサカ人が西南に住み、それに対して北方にはトカラ人とソグド人とが住んでいた、と。ソグド人は今日のサマルカンドとフェルガナに相当するソグディアナの地から植民してきた人たちであった。》

匈奴は(略)ただモンゴリアにおいてのみならず、さらに西方のウラル山脈に至るまでの、ステップ地方の全域にわたって、優勢を戦いとった。そのために、紀元前176年には、東トルキスタンのオアシス民も、また朝貢者にされてしまった。第一にやられたのは楼蘭であった。この国を占領するなら、西方への道を制することも可能だったのである。この場合、隣国である月氏、つまりトカラ人の国が匈奴に滅ぼされたのは、とりわけ手いたい打撃となった。月氏の一部は山地に逃げこみ、また大部分の人たちは転移した。彼らは北方を迂回してイシック・クル(湖)の地区に至り、そこからソグディアナへ移った。ここからさらに進んで、トカラ人はギリシア的・バクトリア的王国をうち倒し、そこに自らの勢力を樹立し、すぐにまた、彼らは北インドの大部分にまで勢力をのばしていった。》

中国の記録ではこうなっている。

史記 大宛伝)
楼蘭の土地と姑師の土地とは、城壁に囲まれた町と、壁に囲まれた前衛地とをもち、塩湖(ロブ・ノール)のほとりにある。》

前漢書)
《鄯善の国は、もともとは楼蘭といわれた。王の居処は扞泥という町で、陽関(長城)から6100里はなれている。この国は、1570世帯と、14100人の住民と、2912人の軍兵をもっている。またつぎのような役人がいる。》

楼蘭がシナの軍事基地であった時代(紀元後260ー330年)のシナによる記録はなく、法顕伝(4世紀)に鄯善が出てくる程度である。