東洋文庫 小梅日記 1 (1849〜1885)

和歌山藩の藩校である学習館の教師で下級武士の川合梅所の許に16歳で嫁いだ川合小梅(1804〜1889)は女房として藩校を切り盛りする傍ら日本画を描き膨大な日記を残した。30歳で長男雄輔を産んでいる。

東洋文庫には嘉永二年(1849)元日からの日記が収載されている。内容としては天気とその日の来訪者、お出かけ先、贈答品がこまごまと記されている。一部を抜粋する。

万延二年二月廿日◯天気よし。風呂たく。主人二日酔いにてよろしからず。七つ比水野多聞殿より肴一籠送らる。返事する。直書の返事は跡よりとて文箱預かり置。同時梅本万す代来る。廿五日には庭之桜見に来てくれと言。万す代どのは子産候悦とて酒券二くれる。坂井茂之丞、来四日江戸へ出立のよし聞候に付、右魚取りわけ、鯛二、方々(魴、鮄)一、ゑび二送る。夕方より宮本孫之丞へ行。林助九郎送りくれる。

校注が無いので人物の関係などが余り良く分からない。

万延二年六月十五日◯あつし。両人共仏参。大立寺へも参る。宿へ甚兵へ殿・松下・梅本、いづれも上下にて来らる。菓果出す。午前両人帰る。七つ比塚山礼に来る。夕方より流しにおかの・お八重・よし・亀等行。宿に敬蔵来る。酒呑ゐるゆへ、有合にて出す。三味引女来り、壱匁ほどこす。元は湊の岡義とか言手形屋の妻のよし。五十一歳とか言。三味はへた也。

フランス船が来着した事件についての記述もある。

嘉永六年六月十七日◯大暑。いこく船おいおいさうどうに付、御かための為に人々出立。いこくの人ののぞみはいづの大島をかり申度、不承知に候えば手向かいするとの事にて、九十軒に三千人程づつ乗組候船山のごとくにみゆるよし也。一戦のつもりにて小谷某相つとめ候との事。江戸よりの状の写し左にしるす。此方にても夫々え仰出され、一番手二番手迄出。金沢弥右衛門の組下三十人計、是らを呼び出し、此度之義に付、具足七十出し、此の内にりゃうは自分着用也其余皆々へかし遺し、金十両づつかし候よし。〜以下略。