東洋文庫 増訂 武江年表 (1848)

本書は一言で言うなら斎藤月岑が著した江戸・東京の地誌ということになる。本文を少し紹介する。

天正十八年〔1590〕庚寅

今年八月一日、台駕はじめて江戸の御城へ入らせ給へり。そのころは御城の辺、葦沼汐入等の地にして田畑も多からず、農家寺院さへ所々に散在せしを、慶長に至り始めて山を裂き地をならし、川を埋め溝を掘り、士民の所居を定め給ひしより、万世不易の大都会とはなれり。(略)○今年七月、北条氏政一家滅亡、小田原城落城あり。○「事跡合考」に、御入国の後、不日に行徳の塩を江戸へ運送のため、運送の為、彼の地より船の通路を掘らしめ給ふ。是れ今の高橋の通りなりといへり。(天文より元亀のことは、行徳より小田原へ塩の年貢を納めしよし、彼の地の口碑に残れり。)》

《文禄三年〔1594〕甲午

九月千住大橋を始めて掛く(此の地の鎮守同所熊野権現別当円蔵院の記録に、伊奈備前守これを奉行す、中流急□にして橋柱支ゆることあたはず、橋柱倒れて船を圧し、船中の人水に漂ふ、伊奈候熊野権現にに祈りて成就すといふ。)》

《慶長九年〔1604〕甲辰八月閏

二月、日本橋をもとゝ定められ、東海道及び越後陸奥等の諸道へ、一里塚を築かしめらる。三十六町一里の積りなり(道の左右へ松を栽えしめられ、夏は木蔭に休らひ、冬は風を除きて旅人の裨益となし給へり)。》

《元和年間記事

女歌舞伎を禁ぜられ、男歌舞伎となる(女かぶきといふは遊女なり。勝れたるを称して和尚ととべり。男かぶきになりては、美少年を選びて舞はしむ。)》

《正保三年〔1646〕丙戌

十月、漢土兵乱未だ止まず。明の余類平戸一官(鄭芝竜と云ふ、国姓爺の父也)、本邦へ援兵を請ふ。》

興味は尽きないが引用はこれくらいにする。編者の金子光晴は一般読書人、シナリオライター時代考証人などは、本書を座右に置いて時に応じて参照すべしと勧めている。