東洋文庫 東遊雑記 (1788)

本書は巻末にある解題によると古川古松軒が天明八年(1788年)に幕府巡見使に随行して記した紀行文である。江戸を発ち東北、北海道まで視察している。

本文を一部紹介する。

越谷駅より粕壁の駅まで二里二十五町、この所よき駅にて倡家多し。古戸根川と号する川あり、寛文初年のころまでは、戸根川この地に流れしに、たびたび洪水ありて今の川筋にかわれりといえり。粕壁の駅より二里八町二ツ屋、一里半杉戸、一里半幸手、二里二十二町栗橋、ここは伊那半左衛門殿御預かりの御関所にて、往来の人を改む。別して女人通行を改むること厳重なり。しかれどもひろびろとせし平地なるゆえに、二、三里ほどずつまわり道をすれば、婦人通行の抜け道いくらでもこれありといえり。これの上の御仁政なるゆえか。》

《中田より一里二十町、古河に御止宿あり。すなわち土井候の城下にして、市中およそ千軒ばかり、下総国下野国との界は、古河より北二十余町にあり、利根川を以って両国の境とせしに、川筋の付き替わりしによって、下総国は帯の如く武蔵と下野とにはさまれてあるなり。》

《若松より三里、関山、二里二十八町大内村止宿、この辺一向山岳のみにして、記すべきことなし。大内村より二里七町倉谷村、三里余田島に止宿。深山はかるべからず、人物・言語も至って悪しく、海魚はさらになく、川魚に赤腹・河鹿などいう目馴れぬ魚はあれども、鯉・鮒・鰻などは土人知らず。》

《さて若松の大川を初めとし、すべてこの辺の川々は西北に流れて、何も越後の新潟へ落ちて海に入るなり。山口村は追分にて、この所よりおよそ六里余り、川下より新潟へ川舟の往来ありといえり。山口村より越後の国界まで陸地十余里といえども、山合いの坂道数多にて、行程詳かならず。両国の界を八十里越えと称して、至って山中人家なき所三里余ありという。上野国への街道は南へ南へと行きて、これも九里余あり、両国の界に沼山と称せる深山甚だ嶮岨にして、人家なき所およそ五里余あり、案内知らざるものは、かつて通行ならざる山道と、案内の者の物語なり。》

まだ序盤ではあるが長くなるので以下は省略する。