東洋文庫 長崎海軍伝習所の日々 日本滞在記抄(1860)

本書はオランダ海軍二等尉官リッダー・ホイセン・ファン・カッテンディーケが日記を元に書き下ろしたものである。幕府は海軍創設を急いでいたがそのためにオランダに軍艦建造を依頼し、オランダの勧めで艦船の操縦術の学校を長崎に作った。そこへ第二次教育班として建造なったヤパン号(後の咸臨丸)に乗ってやって来たのがカッティンディーケである。本書の解説文のくだりを一部紹介する。

寛永十年(1633)徳川幕府は、いわゆる鎖国令を出した。以来二百有余年、我が国民は遠洋航海に適する船舶はその建造を厳禁されて、外国との交通を全く不可能にされ、他方外国人も支那・朝鮮・オランダの三国民を除くほかは、いっさい我が国に渡来することを禁じたばかりでなく、右の支那・オランダ両国民といえども、我が国における居住は長崎に限られ、かつ我が国民との接触は、ただ当路より特許を与えられた人々以外は厳禁されて、また洋書という洋書はその内容の如何を問わず、ことごとく幕府自身を除いて他は何人も絶対に目を通すことを許さなかったというほど厳しいものだった。》

徳川幕府鎖国という語は使っていないが、開国の反対語は鎖国であり、海禁ではない。このへんの事情は「いわゆる」をつければ十分通じる事柄である。

咸臨丸とエド号は福岡まで航行することになった。

《夜に入る前に、我々は大きな、しかし浅い港に入った。福岡はその港の南岸一帯に延びていて、博多市と相隣りし、両者合して一体をなしている。両市の長さは徒歩でゆうに二時間はかかるほどである。どうも此処には、まだヨーロッパ人は一度も来たことがないらしい。我々は直ぐに上陸し、藩候の手代から公式に出迎えを受けた。その出迎えには、八頭の立派な馬が曳かれて来たが、これは非常な歓待の印であるとのことだった。》

著者の日本観を示す興味深い文章を紹介する。

《日本国民が、井中の蛙のごとき強烈なる国民的自負を持つのも、あながち驚くには当たらない。日本人は非常に物わかりが早い、しかしまたその一面、こうした人によくある通り、どうも苦労しないで、あれもこれもすぐ飽いてしまう。彼等は人倫を儒教によって学び、徳を磨くことに無限の愛を感じ、両親、年長者および教師に対し、最上の敬意を払い、政府の力や法規を尊重すること、あたかも天性のごとくである。その反対に、最も慎重に扱わねばならぬ事柄でも茶化してしまうような、軽薄な国民でもある。》