東洋文庫 薩摩反乱記 (1879)

本書はイギリス公使館書記官として日本に滞在していたマウンジーによる"The Satsuma Rebellion, London(1879)" を当時の日本の翻訳官が訳出したものを現代仮名遣いに書き換えたものである。内容は幕末の政治状況から説き始め西南戦争の全容を記したものになっている。一部を抜粋する。

島津三郎およびその累世、徳川氏を怨む事

島津家の当主は、1858年に卒したる先侯の甥なり。当時なお幼にしていまだ政事に心を帰すべき念慮を具せざるをもって、その父島津三郎(本名は島津久光)、この年以来藩の名代となりて事を行えり。(略)1862年朝廷に建言し、特使を発して江戸に遣り、将軍を誘き、これをして朝廷の貴顕とともに外夷掃攘を議し断然の処置を行わしめんがため京都に来たらしむべし、というに至れり。

この建言採用せられ、島津三郎は使者に随行し使事を輔くるの認許を得て、1862年の初めに当り、六百人の従士を率いて江戸に入る。この行や、三郎は前議のほか更に一身上に関せる他の主意を執れり。その事は、一は幕府従来諸大名に逼りて毎歳江戸において時日を過ごさしめ、その不在の間はすなわち親族をこの地に留めて質となすの制を廃せん事を請い、一は己朝廷において至高の職位に選抜せらるるとき、将軍政府のこれを許可せん事を請うなり。しかるに、この要求はともに聴用せられずして、江戸に滞留するの間、将軍の面閲を許されざりき。けだし、かくのごときの待遇は、従来薩摩藩の徳川氏に対して蓄えたる怨念憎忌の心をしてますます重大ならしめ、島津主従は、報復雪恥の情あたかも烈火のごとく、ついにその国に還る。帰途、江戸を離るる事少しばかりの官道において英国の馬に騎る者に逢い、これを撃殺し、この事よりして薩摩および鹿児島の名はおおいに英国のために知らるるに至る。

鹿児島の砲撃

ここにおいて英国政府は、直ちにこの暴行に対して償補を望むといえども、将軍の政府は急速これに従うを得ず、かつ彼等ひとたびその本国に還りし時はまたその主謀者を捕うるの力なきを陳説せしにより、鹿児島はついに英国艦隊のために砲撃を受けて焚焼せり。 (略)

読んだ感じでは日本側の記述と微妙に異なるところを散見する。狂いの無い目はさすが大英帝国だ。戦闘の様子を記述した部分も一つだけ紹介する。

西郷、官兵守線中に突進す

ここにおいて、鹿児島へ退かんと決せし者は、直ちに深霧に乗じ、窃かに陣営を脱す。この時西郷は、桐野、村田、別府、逸見、その他西郷に従い戦死を遂げんと決心せし薩摩士族およそ二百人とともに、忽然三好少将、野津少将の守線に突衝し、その不意を撃ちてこれを破り、ついに彼らの陣営を取る。ここにおいて、兵器、弾薬、糧米等を獲て、それより官兵の守線を突き開き、血路を得て、雲霧深き山中に投没する事を得たり。 この時賊徒数千人は兵器を擲ちて軍門に降る。桂衛門もまたその中にありて、彼は八千人とともに野津の軍門に降伏す。その内、傷を負う者三千人あり。その後一両日を経て、南日向あるいは薩摩の山中にありて降伏を肯んぜざりし他のわずかの人員も、この例に倣い、ついに降伏せり。

東京の驚愕

賊徒軍門に降りしとの電報、既に東京に達するや、政府は直ちに、巡査および警視隊として曩に徴集せしあまたの士族へ解隊の令を発し、諸大臣および人民は、ともに、この騒擾のすでに平定に到りぬとし、一週間余は、この事を信じ、安堵して疑わざりしなり しかるに、あに計らんや、西郷、兵を率いて、忽然鹿児島に来襲し、城下の一部を占拠せしとの電報、九月三日長崎より東京へ達したり。この時、官民ともに、もはや騒擾の局を結びし事と速断せしをもって、諸大臣はこの報を得て大いに驚愕し、人民はこれを聴きて奇異の事に思いしなり。この事ひとたび東京人民の脳中に感触してより、四方に伝聞して、ついに人民これに感動する事はなはだ大なるに到る。これによりて政府は、東京巡査千七百人を直ちに鹿児島へ向かいて出発せしめ、また兵隊八百人をこれに続きて出発せしむ。また、今や賊徒の長崎へ来襲するも計りがたきをもって、一分隊を長崎へ向けて派遣す。然るに長崎県令は、既にその城邑の周囲に砲塁を築きて、専ら軍備を整う。(略)

城山の攻撃

(略) 西郷はその腿に銃丸を受けてまず仆れたり。よってその副職の一人逸見十郎太は、士族が友情の職務と思惟せしところの事を行えり。渠は、その魁首が敵に生け獲りせらるの恥を免れしめんため、その鋭刃をもって西郷の首を刎ね、しかしてその首を西郷の従僕の一人に与へてこれを匿さしめ、しかるに後に自殺せり。