東洋文庫 昔夢会筆記 ー徳川慶喜公回相談ー(1915)

本書は元幕臣だった渋沢栄一が企劃編纂した徳川慶喜公の詳細で完璧な伝記資料のようである。目次を見るだけでこんなことが当事者の証言で記述されているのかと驚かされる。

さて内容を見て行こう。

《烈公の御教訓の事

烈公尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予が二十歳ばかりの時なりけん、烈公一日予を招きて、「おおやけにいい出すことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事ありて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府には反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これは義公(水戸光圀公)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」と宣えり。》

烈公(徳川斉昭)の子だった慶喜公は水戸の屋敷で育ったのである。

《鷹司関白と御談話の事

予、上京の後、鷹司関白(輔煕)に閲して、詳らかに外国の形勢を説き、その兵艦の強大なること、鉄砲の鋭利なること、さては運転の自在なることなどを語りたるに、関白一々聞き取りて、「さもあらん」と言わるるにより、さては幾分耳目を洞開せられしかと、心密かに喜びいたるに、最後に「しかし日本人には大和魂あれば」といい、また「貴所も烈公の御子なれば、必ず攘夷はなされような」と奇問を発せられしかば、予はほとほとその度し難きに困じ果てたりき。》

《鳥羽伏見の変の事

予、既に大阪城に入り、物情の鎮静に力めしも、上下の激昂は日々に甚だしき折から、江戸にて市中警護の任を負える庄内の兵と、薩摩の兵と争端を開きしかば、大阪城中上下の憤激は一層甚だしきに至れり。(略)新村氏曰く、当時の大小目付部屋の光景は驚くものにして、いずれも胡坐し、口角泡を飛ばして論議し居れる有様、ほとんど手を下さんようもなかりき。 この時、予は風邪にて寝衣のままじょく中にありしに、板倉伊賀守来りて、将士の激昂大方ならず。このままにては済むまじければ、所詮帯兵上京の事なくては叶うまじき由を反復して説けり。予、すなわち読みさしたる『孫子』を示して、「知彼知己百戦不殆」ということあり、試みに問わん、今幕府に西郷吉之助に匹敵すべき人物ありやといえるに、伊賀守しばらく考えて、「無し」と答う。「さらば大久保一蔵ほどの者ありや」と問うに、伊賀守また「無し」といえり。(略)因りて予は、「このごとき有様にては、戦うとも必勝期し難きのみならず、遂にはいたずらに朝敵の汚名を蒙るのみなれば、決して我より戦を挑むことなかれ」と制止したり。(略)江戸にて薩邸を討ちし後は、なおさら城中将士の激動制すべからず、遂に彼等は君側の姦を払う由を外国公使にも通告して入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦を開きたり。予は始終大坂城中を出でず、戎衣をも著せず、ただ嘆息しおるのみなりき。》

引用が長くなるのでこの位で。