DUAL GATE MOS FET プリアンプ II (2)

   現在稼働中の一号機。DENON PRAー2000のイコライザーセレクターだけ使い、これを通してHMAー9500 IIに繋いでいる。電源スイッチは使っていると引っ掛かりが無くなることがあるので予備が必要だ。このスイッチは3つ目である。

 

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  二号機はここまで来た。音を再現するには同じ半導体の方がいいだろう。

 

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東洋文庫 南島雑話 幕末奄美民俗誌 (1855)

  奄美に遠島となった薩摩藩士名越左源太が五年間滞島した折に記した絵入り民俗誌である。冒頭には享保十二年の検地の石高が「大島私考」より引き写してある。一万六千七百七十八石六斗一升一合四夕九才とある。畑作も行われており大麦小麦も徴税するようだ。「耕芸の事」の項で稲を刈る時の一把、一タバリという呼称は薩摩藩には無いという。これについては以下の様な考察がある。

  日本上古の言葉、吾藩今通言なくて、此島今通ずる事は数多あり。平家没落の人衆、此島に渡りしより人倫の道稍開けて九族を分かち、五穀を栽て、作職を励しと云ふ。

  平家が来た後は姥捨の風習が無くなったという言い伝えがある。

  作物の事。蕎麦は出来ないが粟は良く出来ると云う。山を切り開いて畑作をする。唐芋、粟、大根、蕪、黍、赤ゴシヤ、里芋、藍、生姜、煙草、砂糖黍がよく出来る。唐芋(甘藷)については特に詳しく記されている。

  衣類の事。婦人は皆織物をする。芭蕉から採った綿で織り藍で紺に染める。養蚕も盛んとは言えないが行われている。此辺の島では芭蕉が多く自生する。皮を剥いで灰汁で煮て竹でしごけば繊維が採れる。

  続いて住居、食べ物についての記述があるが略す。

 

 

 


映画 櫂 (1985)

  高知で娼妓紹介所を営む富田岩伍(緒形拳)の妻である喜和(十朱幸代)の一代記になっている。裕福な富田家では長男竜太郎、次男健太郎に加え神戸の港で岩伍が買ってきた菊が番頭たちに囲まれすくすくと育っていた。だが竜太郎は肺病で亡くなり、健太郎は賭博場のトラブルでヤクザを殺し刑務所に入るというとんでもない状況に陥る。ヤクザに殴り込みをかけようとする岩伍を喜和が何とか宥めて破滅を免れた。

  商売の方は順調に行く。岩伍は芸妓の巴吉の売り出しに成功するが自分の妾にしてしまい綾子をもうける。この赤子をめぐって岩伍と喜和が対立する。岩伍側は巴吉と別れる代わりに綾子を家に入れると言う。喜和が育てろと言う事だがこれには喜和が猛然と反発する。結局乳母を雇う事で妥協が成立する。

  今度はヤクザ側が岩伍を襲撃する。この時岩伍は怪我で済んだが車夫が撃たれ死亡する。その知らせを聞いた喜和が子宮筋腫で倒れ手術を受ける事になる。手術は無事に終わり平穏を取り戻した富田家では綾子がすくすくと育ってゆく。綾子は菊と違って器量良しである。

  或る日岩伍は亡くなった車夫の家を訪ね焼香するのだが未亡人の照にムラムラと来て妾にしてしまう。健太郎が出所し富田家の商売を切り盛りする事になるが喜和と綾子の事を冷遇し始める。怒った喜和は綾子を連れて出て行き長屋で貧乏着らしを始めるのであるがだんだん窮地に追い込まれてゆく。結局さらに裕福になった岩伍の元へ綾子を喜和はハイヤーで送り、自分は橋の上で下車し去ってゆく所で映画は終わる。

  大正の頃の裕福な家はこんなものだと言えばそれまでだが、喜和はわりと現代風の感覚で対処して生きている。この辺が作者の狙いなのだろう。五社英雄監督の作品らしく絵には趣があり俳優陣の演技は重厚である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 私はシベリヤの捕虜だった (1952)

  タイ語によるオープニングロールとともに雪原を歩く捕虜たちが現れ手前には鉄条網が見える。ここだけ音声が無い。私たちは流刑囚用の収容所に送られたというナレーションで始まる冒頭の7分間はドキュメンタリーのように見える。森林を切り開く作業のところから俳優が演技しているなと判る。捕虜になり1年半経った頃であるという。まだ上官が幅を利かせている。捕虜が作業中の事故で亡くなったり、罰を受けて外に出されて凍死したりという悲劇が描かれる。貧弱な食事の分配、ノルマの事でトラブルが持ち上がる。

  或る朝、本日帰国することが決まったという発表がある。帰国の為の列車が雪原を走る。車内の捕虜たちは最初は喜びに湧いていたが行先が違うことにだんだん気付いてくる。次の収容所は思想教育が行われている所だった。民主化同盟と名乗る一団が幅を利かせており将校たちは別の収容所に送られる。葉書が配られ皆が家族に安否を知らせることができた。だが春が来ても帰国の為の船は来ずノルマがきつくなるばかりである。元上官が人民裁判にかけられる。帰国が決まりいよいよナホトカに帰国船が到着する。歓喜に沸く日本人捕虜たち。だが帰国間際、正論を言い通した男は反動分子とされ帰国を許されず炭鉱送りとなった。さらに皮肉な事にお調子者の密告者も帰国を許されず一緒に炭鉱送りとなったのである。

  舞鶴引揚記念館でこの時の葉書などを見ることができる。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東洋文庫 日本大王国志 (1636)

  第八代オランダ商館長フランソア・ガロンの記した日本に関する簡潔で詳細なレポートである。ヨーロッパの国々でそれぞれの国語に訳出され読まれたという。第三代将軍家光の治世であり鎖国体制が完成してゆく状況であり将軍の世嗣ぎの問題も生じている。問いに答える形で日本の領土、諸侯の収入、皇帝(将軍)、内裏(天皇)、日光東照宮の建造、御台の事、兵員と武器、参勤交代、江戸屋敷、夫人の貞淑さ、堅固で大きい多数の城、刑罰、宗教、宗派、ローマカトリック教徒の迫害、住居、家具、もてなし、婚姻、公娼、子女の教育、相続、国民性、商業、貿易、貨幣、度量衡、算術などについて簡潔に述べている。

  ガロンは日本人の国民性について名誉を重んじ信頼に値すると評価し、物産は生活に必要な全てを豊富に産出し、鳥獣は豊富で温泉も多いと述べている。兵力は歩兵騎兵合わせて40万と評価している。このころ日本では島原の乱、ヨーロッパでは30年戦争が起こっているが動員力は日本の方が上である。ガロンは日本婦人を娶り六人の子をもうけた。夫人の死後、印度顧問官に出世したガロンは蘭人の若い嫁をもらっている。

 


映画 超高速!参勤交代 (2014)

  老中の命で理不尽な参勤交代を命じられた湯長谷藩内藤政醇は五日で江戸城まで辿り着かねばならない。出来なければ藩は御取潰しとなる。覚悟を決めた内藤は家老の相馬以下数名の家臣と共にこの難題に挑んだ。

  忍者の霧隠段蔵に先導してもらい山中を駆け抜ける。宿場では日雇いの中間を使い厳かに行列する。老中の放った忍者衆による妨害をはね除けながら高萩宿、牛久宿、取手宿と道中をこなし暮れ六つギリギリに大手門に到着する。江戸城でのやり取りは湯長谷藩の主張が通って難癖をつけた老中側が失脚するという水戸黄門顔負けの勧善懲悪な結末になっている。

  道中の景色と宿場の雰囲気は楽しめたが、忍者と家臣のチャンバラ劇は派手にすればするほど作品のリアリティが減じて行く。この作品は100%娯楽映画の方に振ってあると言えるだろう。