映画 スケアクロウ (1973)

  マックスが暴行傷害の罪で6年の刑を食らって出所しヒッチハイクで妹の家に寄り旅費を借りて銀行まで行ったら金を下ろして商売を始めると言うのは、教育のない移民がのし上がって行くよくある道筋でありアメリカではごく普通の話でマックスのダメージはゼロと考えられる。旅の途中も余裕綽々で女にモテ相手構わず喧嘩もする。

  一方ミドルネームをもつフランシスは独特の人生哲学を披露する。スケアクロウとカラスの関係はカラスがスケアクロウに同情するのだと言う。フランシスは若くてハンサムなのにホモにしか言い寄られない。人に対して気遣いがあり慎重なのに最後は女から悲惨な仕打ちを受け発狂するのである。この違いは何か?

  映画の中に答えがあるとも言えるしないとも言える。思わせぶりの映画だがそれ程完成度は高いとは言えないだろう。

 


映画 主人公は僕だった (2006)

  平凡な一般人である国税調査官ハロルドは整数に強く何でもカウントする習性がある。暗算も得意である。変わった腕時計を身につけているが何かに反応して知らせてくれる機能がある。ある日の事ハロルドに女の声が聞こえてきて、それが自分の行動と一致しているのに気付く。声はナレーションのようでもあり、ハロルドが死ぬ運命であるかのような事を言う。ハロルドは驚き恐怖に駆られて精神科医に相談する。精神科医統合失調症と診断するが受け入れられないなら文学の専門家に相談するようアドバイスする。

  大学教授のヒルバートはこの現象に興味を示しハロルドの属性からこのストーリーに一致する物語を検索するが見つからない。たまたまハロルドが見ていたテレビに同じ声の女流作家が出ていて声の主が彼女であることが確定する。カレン・アイフルはいままでに八つの小説を上梓しておりすべて主人公が死んでいる。現在執筆中の小説は途中で行き詰っているが主人公が死ぬべきストーリーをやっと考えついたのだと言う。

  ハロルドは長期休暇中で恋人もできこのまま死ぬわけにはいかないと行動を開始する。ハロルドは国税調査官の職権を使いカレンの住所を突き止め面会を申し出る。カレンはハロルドを見ると驚いてガタガタ震えだすのだが残念ながら草稿は完成していた。この草稿をもらいヒルバート教授に読んでもらうとこの小説は歴史的傑作であり結末を変えることは無理であると言いハロルドに死ぬ事を勧めて来る。この辺がこの映画の中で一番シュールな場面である。

  結局ハロルドはそれを受け入れ朝の通勤のバス停で事故に遭う。これにより少年の命が救われたという結末である。だがカレンは結末を書き換えておりハロルドは骨折で済み恋人と幸せに暮らすことができたのである。

  これもまた変わったテイストの独創的な映画の一つだが少々日和ったところがあるようだ。

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

映画 クワイエットルームへようこそ (2007)

  主人公の明日香は元風俗嬢だが今はバリバリのキャリアウーマンという設定で原稿の締め切りに追われている日々が描かれるが、突然眼が覚めると真っ白な監禁部屋のベッドに拘束されて点滴と酸素マスクが付いている。どうしてこうなったのか明日香には記憶がない。部屋の外から恐ろしい悲鳴が聞こえる。不条理劇のスタートである。

  看護師、医師が現れてここはどこで自分が何をしたかがだんだんわかって来るが今度は精神病院の不条理なシステムが覆いかぶさって来る。同居人の彼氏が差し入れのバッグを持って面会に来る。睡眠薬overdoseした夜の状況を聞かされるがそれには少々嘘が混じっている。仕事の事が気になる明日香はできるだけ早く主治医と同居人の同意を得て措置入院の状況から抜け出す事を目指すことになる。

  体が回復して来ると個性的な入院患者達との交流が始まる。レディースホスピタルのここは拒食症の若い子やoverdoseの医師夫人、覚醒剤中毒の女がいる。特に覚醒剤の女は新人に近づいては高利貸しのような事をして症状を悪化させるのが楽しみで皆から嫌われている。明日香も2500円借りてしばらくすると数倍になっていた。この女の嫌がらせによりブチ切れた明日香は再びクワイエットルーム入りになる。

  明日香が不眠症になったのは前夫の自殺のせいであるという。今回overdoseになったのは仕事のストレスと夫婦喧嘩のためであるという。要するに明日香は美人であるがハズレ妻でありアル中でメンヘラーなので普通の男は近づいてはいけないのであるが、今の同居人の鉄男はテレビ業界の男でかろうじて釣り合っているという状況である。

  その後大人しくしていた明日香は二週間で退院になる。その際さんざん振り回した鉄男とも別れ、明日香は一人でタクシーで娑婆に帰っていった。自由になった明日香はこれからも酒と睡眠薬を友とするのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東洋文庫 ジョージ・マカートニー 中国訪問使節日記 (1794)

  ジョージ3世治下のイギリスはジョージ・マカートニーを全権大使として乾隆帝治下の清国に送り込む。目的は通商条約締結である。1792年9月21日マカートニー率いる使節団は軍艦ライオン号に乗ってポーツマスを出港する。ベルデ岬諸島、リオデジャネイロ、トリスタン・ダ・クーニャ島、アムステルダム島バタヴィアツーロンマカオ舟山群島を経て使節団は1793年8月11日に天津に上陸する。さらに通州、北京を経て円明園の宿舎へ8月21日に到着した。

  この時期皇帝たちは熱河(承徳)の離宮に滞在中である。シャンデリア、時計、プラネタリウムなどの貢物を円明園に置いて使節団は9月2日熱河へと出発する。この間清の高官たちに謁見時の跪拝、平伏についてレクチャーされるのだがマカートニーは断固拒否している。またいろいろと邪魔をしてくる欽差大臣の事を警戒している。

  9月8日使節団は熱河に到着し9月14日宮廷においていよいよ乾隆帝に謁見する。結局、三跪九叩頭は行われずイギリス式儀礼で決着した。使節団はしばらくここに滞在するが儀式と余興が終了したと告げられ9月21日に北京へ出発する。 10月13日に天津に到着。天津からは大運河を陸路を交えながら航行し杭州、南昌を経て12月19日英国商館のある広州へ到着する。ここでいろいろ情報を収集し翌年1月15日マカオに着いたところで日記は終わる。
   マカートニーは明晰な文章と優れた観察眼を以ってこの日記を記述し、その分析力は驚くべきものである。日本に来られたらたまったものではないと思った。だが肝心の通商条約締結は失敗に終わりマカートニーが日本に来ることも無かった。