晩年の時間つぶし (12)

鎧を脱いだら即死しそうな状況なのでまだ先になりそうだ。とは言えプラモを作り、ビートルズのアナログ盤を聴き、岩波文庫を読んでいると小学生に戻った感じがしてくるのである。

グロリアスーパー6の方はルーフが付いていてこれを塗装して乗っけるとセダンになる。足回りも凝っていて前輪セミトレーリング、後輪リーフのリジッドになっているのがわかる。

岩波文庫 シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (2)

このような記述がある。

《二 シュルレアリスムにのめりこむ精神は、自分の幼年時代の最良の部分を、昂揚とともにふたたび生きる。それはなにか精神にとって、いましも溺死しようとしているときに、自分の生涯のすべてを、またたくまに思いおこしてしまうひとの確信のようなものである。それではあまり乗り気になれないといわれもしよう。けれども私としては、そんなことをいうやからを乗り気にさせようなどと思ってはいない。幼年時代やその他あれこれの思い出からは、どこか買い占められていない感じ、したがって道をはずれているという感じがあふれてくるが 、私はそれこそが世にもゆたかなものだと考えている。「真の人生」にいちばん近いものは、たぶん幼年時代である。幼年時代をすぎてしまうと、人間は自分の通行証のほかに、せいぜい幾枚かの優待券をしか自由に使えなくなる。ところが幼年時代には、偶然にたよらずに、自分自身を効果的に所有するということのために、すべてが一致協力していたのである。シュルレアリスムのおかげで、そのような好機がふたたびおとずれるかに思われる。それはあたかも、ひとが自分自身の救済あるいは破滅にむかって、いまも走り続けているようなものだ。》

ブルトンの言うシュルレアリスムとは社会に数歩踏み入れてしまった大人が、身に付けざるを得なかった鎧のような物を自ら外し、無意識を解放するような形で溶ける魚のような文章を書くことである。

溶ける魚

《学校のチョークの中には一台のミシンがある。小さな子供たちは銀紙の巻毛をゆすっている。空は風によって刻々とぶきみに消されていく黒板だ。「みなさん、眠ろうとしなかった百合の花がどうなったか、わかりますね。」と先生が、口を切り、終列車の通るすこしまえに、鳥たちが声をきかせはじめる。》

これはいいヒントになる。老年期はもうその鎧を脱いでもいいわけで、純粋な幼年期に戻る事がはるかに容易になっているのである。

映画 サハラ 死の砂漠を脱出せよ(2005)

これは今回観たのが二回目だが結構複雑で面白い。登場人物が酔狂でマニアックだし、状況が急変することによりそのまま大冒険に突入するのである。特殊部隊なみに強いのはやり過ぎの観がある。

アメリ南北戦争の終盤、異様な形をした南軍の装甲戦艦が金貨を満載したまま消息を絶ったという伝説を調べている海洋学者のピットは、NUMA(国立海中海洋機関)の一員であるが、ナイジェリア沖で任務を遂行中に同僚で友人のジョルディーノとともに上司から借りたボートを駆ってニジェール川を遡り内戦中のマリに侵入する。原作はクライブ・カッスラーの小説だが実写(CGもあるかも)で再現されているのには感心する。本筋とはあまり関係ないがWHOの女性医師ロハスも出てきてアクションに絡んでくる。

ビットらはマリの防衛軍の攻撃を返り討ちにした挙句、謎の工場に侵入し遂には逮捕されるが逃亡しサハラ砂漠をさまようことになる。トゥアレグ族も絡んでくるが最後は独裁者であるカジーム将軍と戦う事になり、砂漠に埋もれていた戦艦に乗り込んだ三人は旧式の大砲を発射する事でゲームを逆転するという筋書きになっている。二度目の視聴時にはストーリーはほとんど忘れていたが砂漠から軍艦が現れる異様な光景は何だか覚えていたのである。

Symphony Pro6 (26)

  スーザの吹奏楽のメロディーが馴染んだ曲を全部集めた。完璧とは言えないがとても良くできたのがいくつかある。多分Mac book airの役割が大きいだろう。

https://youtu.be/G7Ltc3M9xCo

  この後はクラシック曲で音楽史みたいなのを作ろうと思う。今度はアーティキュレーションに専念出来るのでそれ程時間はかからないと思う。

晩年の時間つぶし (11)

このようになった。

二回スプレーしてサンダーをかけてもう一回スプレーした。鏡面仕上げは無理なのでこのくらいにする。

何故かグロリアスーパー6のはずなのにオープンカーになっている。

オープンカーの方も注文してみたがこちらもオープンカーである。よくわからない。

映画 疑惑の影 (1943)

日曜映画劇場において1980年代に放映されたことがある作品だが、このような白黒映画を実際に茶の間で見た人は驚いたのではないだろうか。NHK BSでヒッチコック特集として放映されるべき映画である。アメリカ国立フィルム登録簿にも登録されているので何らかの価値があるのだろう。

サスペンスとしては古典的な、自己顕示欲の強い犯罪者が登場して、義家族との間にちょっとしたトラブルを巻き起こす。殺人事件の容疑者としてFBIに追われているチャーリーは姪と仲良しであり、姪の住むカリフォルニアの田舎町の家にしばらく厄介になることにした。金持ちのやさしい叔父さんとして歓迎されるチャーリーだが、そこにだんだんと疑惑の影が射してくるという話である。

姪は美人で聡明なキャラクターで、周辺には黒人の姿はない。白人社会のいびつさを描いた映画であり、移民の刑事コロンボが登場するテレビドラマが人気を博するのはそれから25年後である。

岩波文庫 シュルレアリスム宣言・溶ける魚 (1924)

とうとうここにぶち当たってしまった。若い頃当然読んではいたし、当時世間でもエピステーメー蓮實重彦冷し中華思想などで賑わっていた。蓮實氏の御子息は作曲家である。僕もシュールレアリスム風の絵を描いたり、作詞もしていたが長い間社会に揉まれているうちに目の前の課題にのみ集中してシュールレアリスムの事はすっかり忘れていた。

《人生への、人生の中でもいちばん不確実な部分への、つまり、いうまでもなく現実的生活なるものへの信頼がこうじてくると、最後には、その信頼は失われてしまう。人間というこの決定的な夢想家は、日に日に自分の境遇への不満をつのらせ、これまでに使わざるをえなくなっていた品々を、なんとかひとわたり検討してみる。そういう品々は、無頓着さによって、それとも努力によって、いやほとんどこの努力によって、人間の手にゆだねられてきたものだ。というのは、彼は働くことに同意したからであり、すくなくとも、運を(運と称しているものを!)賭けることをいとわなかったからである。そうなると、いまでは、おおいにつつましくすることが人間の持ち分になる。これまでどんな女たちをものにしてきたか、どんな出来事に足をつっこんできたかは、自分にもわかっている。豊かだとか貧しいとかいうことはとるにたりない。この点では、人間はまだ生まれたばかりの子どものままだし、また道義的意識への同意については、そんなものなくても平気でいられるということを認めよう。いくらか明晰さをのこしているなら、このとき、人間は自分の幼年時代をたよりにするしかない。》

新回路の発明に没頭していたとき、ふとシュールレアリスムを思い出したのかこんな回路も考えた。