失われた時を求めて (109)

一緒に訪れた地名やアルベルチーヌの名を想起させる人名に苦痛を呼び起こされるプルーストは神経衰弱のようになる。だがその一方で忘却の持つ威力についても感じるようになる。アンドレを呼び出して過去のアルベルチーヌの悪行を聞き出し、さらにショックを受けるが、ジゼルとそういう行為をやって見せてくれとプルーストが持ち掛けるとアンドレは激怒してなにも教えてくれなくなった。今やプルーストが執着するのは女同士のそういった行為を見ることである。

気になるブロンドの娘を街角で見かけて、彼女のことを守衛さんに聞いたり、ロベールに電報を打ったりしてプルーストは忙しく動き回る。新しい恋が始まるのかと思わせておいて、実はプルーストにとっての一大事件が今から述べられるのである。

それはある朝、母が持ってきたフィガロ紙から始まる。プルーストが目を通すと、ずいぶん前に書いた寄稿文と全く同じ内容の文が載っていて、訝って読んで行くと署名の所に自分の名が記してあったのである。プルーストは天にも昇る心地でこの様な事を言いはじめる。以下引用文。(吉川一義訳)

《それから私は、精神の糧、精神のパンたる新聞をまじまじと見つめた。いまだ温かくて、刷りたてのインクと朝霧に湿った新聞は、夜明けとともに女中たちに配られ、その女中たちによってカフェオレとともに主人のもとへ届けられる。一部でありながら同時に一万部にも増やせる奇跡のパンというべきか、ひとりひとりには同一のものでありながら同時に無数の存在となってあらゆる家の中にはいりこむ。(略)というわけでこの文章を読むには、私は一時的に著者であることをやめ、新聞の任意の読者のひとりになりきらなくてはならない。》

不自然に途切れたブロンド娘の話はこう続くのである。ゲルマント夫人邸での事である。以下引用文。(吉川一義訳)

《そのブロンド娘は(略)すぐこう言った、「憶えていられないかもしれませんが、昔、あなたはわたくしをよくご存知でしたのよ、家にもいらっしゃいました、あなたのお友だちのジルベルトです。(略)」》