失われた時を求めて (88)

プルーストのこの頃の朝の目覚めに関する叙述を示す。以下引用文。(吉川一義訳)

《そもそも一時間も余計に眠ると、しばしば卒中の麻痺に見舞われたも同然の状態になり、そのあとでは手足の動かし方を想い出し、口の利きかたを学びなおさなければならない。それには意志の力など助けにならない。眠りすぎて、もはや自分ではないからだ。眠りはかろうじて機械的に感じられるだけで、自覚はされず、まるで水道管のなかにいて蛇口が閉まるのを感じるようなものである。そのあとはクラゲの生よりも生気なき生を余儀なくされ、なにか考えることができたとしても、まるで海底から引きあげられたような、流刑地から戻ってきたような気がするばかりだ。だが、そのとき、上空から女神「記憶術」が身をかがめ、「カフェオレを持ってこさせる習慣」という形で、われわれに蘇生の希望をさし出してくれる。》

なかなか奇妙な感覚の比喩表現になっている。

リアルタイムでない小説、つまりこの小説が昔の出来事を素材にして検討を加え考えをまとめて行くという手法を採っている為に、読んで行くとしばしば結論めいた記述に遭遇する。

《私にとってその娘は未知の魅力で彩られていて、それは多くの女が待ち受ける娼家で見つけた美しい娘にはつけ加わるはずのない魅力である。これは裸でもなく妙な扮装もしていない正真正銘の乳製品店の娘で、本人に近づく余裕のないときにはきわめて美しい人だと想像しがちな女性のひとりで、どこかしら人生の永遠の欲望、永遠の哀惜を感じさせる存在であって、その存在の二重の流れがようやく方向を変えてわれわれのそばにやって来たのだ。二重の流れというのは、一方ではそれが未知の存在であり、その身長といい、プロポーションといい、相手を歯牙にもかけぬまなざしといい、高慢な泰然自若ぶりといい、これは絶世の佳人にちがいないと想像させるからであり、他方では求めているのが専門の職業をもった女で、その特殊な衣装による小説じみた連想から別天地にちがいないと想いこむ世界へわれわれを逃避させてくれるからである。そもそも恋愛にかかわる好奇心の法則をひとつの公式にまとめようとするなら、見かけただけの女と近寄って愛撫した女との隔たりを最大値とすべきであろう。》

これがプルーストの人生における結論である。