失われた時を求めて (86)

プルーストの文章は美文調であったり、哲学的叙述であったり、卑俗な喜劇風のこともあるが、吉川一義氏の日本語訳は一貫して格調があり、語意は正確そのもので、文字面の見た目にも気を遣っているように思われる。この辺りの訳出文を見ていただきたい。

《「あの通りすがりの娘をなぜ見つめていたの?」と訊くのがすでにむずかしいのに、「あの娘をなぜ見つめなかったの?」などとはなおさら訊きにくい。しかし、私にはわかっていた、いや、私がアルベルチーヌの断言を信じようとするのではなく、そのまなざしに含まれるすべての些細なことがらを信じようとしていたなら、せめてわかっていたはずである。》

アルベルチーヌの不貞行為についての止めどない考察を読んでいると、プルーストが妄想に溺れて自滅するタイプだとわかる。或いは嫌なことを先延ばしするタイプでもある。先延ばしした結果、昔の事柄が時を経てプルーストの心に突き刺さり、そこから過去の検証が始まるのである。だが今の現実に直接立ち向かおうとはしない。

《そのとき、それまで幸福をもたらす水上をにこやかに航行していた私の思考は、エメが最初に話してくれたときとは別の方面からその話に近づいたとたん、突然、わが記憶のその地点に目に見えぬようにこっそり敷設されていた危険な機雷にでも触れたかのように暴発した。エメは、アルベルチーヌに出会って、行儀の悪い女だと思った、と言ったのだ。》

プルーストは聞き流していたが、「行儀の悪い女」には春を売る女、ゴモラの行為をする女という意味があるではないかと気付くのであった。当然プルーストは後者の意味と捉え慄然とする。