東洋文庫 増補山東民譚集 (1914)

このような本を書いた柳田邦男は「思う存分書きたい病」のような状態だったことが再販序の記述から伺える。

《斯んな文章は当世には無論通じないのみならず、明治以前にも決して御手本があったわけで無い。大げさな名を附けるならば苦悶時代(略)に、何とかして腹一ぱいを書いて見たいといふ念願が、ちやうど是に近い色色の形を以って表示せられたので、言はばその数多い失敗した試みの一例なのである。》

本文はこの様になっている。

《温泉

(略)先ズ東北ニハ陸奥下北郡川内村蠣崎ノ鶯之湯ハ、昔火箭ニ中ツテ脛砕ケタル白鷺アリテ此泉ニ来リ浴シ、日ヲ経ルマゝニ癒エテ飛去リシガ故ニ斯ク名ヅク[真澄遊覧記六]。羽後仙北郡峯吉川村ノ鴻之湯ハ昔鴻ノ島角鷹ト闘ヒテ脛折レタルヲ此温泉ニ温メテ之ヲ治セリ[月之出羽路二]。》

河童については思う存分書いている。

《東京近傍ニ於テハ武蔵北足立郡志木町、旧称ヲ舘村ト称スル地ニ於テ、引又川ノ河童宝幢院ノ飼馬ヲ引カントシテ失敗ス。馬ノ綱ニ搦メラレテ厩ノ隅ニ倒レ馬ニ蹴ラレテ居リ、和尚ノ顔ヲ見テ手ヲ合ハス故ニ、同ジ誓言ヲサセテ後之ヲ愈宥ス。此河童モ甲斐飛騨其他ノ同類ノ如ク夜明ニ大ナル鮒ヲ二枚和尚ノ枕元ニ持来リ、当座ノ謝意ヲ表シタリト云ヘリ[寓意草上]。》

《共ニ後世ノ河童ガ避ケ且ツ忌ミタル壺蘆ノ瓜ナルコト大凡其疑無キニ近シ。河童ハ又麻ヲ忌ム。或人河童ヲ捕へ之ヲ斬レドモ通ラズ、麻穣ヲ削リテ刺セバヨク通リタリ。又樒ノ香ヲ悪ムトモ云フ説アリ。或ハ法師ノ言ヒ始メシ言ナランカ。河童ノ愛スル物ハ胡瓜ナリ。胡瓜アル畠ニハ多ク来ル。胡瓜ヲ食ヒテ川ヲ渡ル人往々ニシテ河童ニ取ラルゝコトアリ。関東ニテハ六月朔日ニ胡瓜ヲ川ニ流シテ河童ノ害ヲ攘ヒ得ベシト信ズル者アリ[竹抓子四]》

当時の柳田邦男は千代田文庫の番人をしており、写本の類を数多く閲覧できたと序に書いている。