東洋文庫 菅茶山と頼山陽 (1971)

天明八年(1788)六月五日、菅茶山は厳島を見物するために、弟子の藤井暮庵や従弟の君直などを同伴して、備後国神辺の自宅を立ち、福山、尾道、西条などをへて、十日に広島に入ると、ただちに旧友頼春水をその研屋町の邸宅に訪れた。当時芸藩に仕える儒官であった春水はそのときあいにくまだ藩の学問所から帰っていなかったが、春水の弟の、これも茶山にとっては旧知の杏坪と、それから久太郎とが、その茶山たちを出迎えたという。久太郎はのちの山陽である。》

なんとのどかな悠々自適の生活であろうか。これで79歳まで生きたのだから羨ましい。一方久太郎は精神的な持病があるようで、江戸での遊学を一年ほどで切り上げて広島に帰ってくる。広島での生活について春水の日記の記述がある。

《「十六日、御供ぶね見に行、久太郎ゆかぬといふを、すすめてつれ行」というような記載がある。この最後の「御供ぶね」というのは、厳島神社の管絃祭に、笛や太鼓の音とともに、広島市中からくりだす屋形船にことである。》

この古式ゆかしい祭はいまも残っていてYouTubeでも見る事ができる。

二十歳で妻帯者となり脱走事件を起こした後、死罪を免れ幽閉された久太郎について書かれている。

《その廃嫡の身の無聊をかこちながら、一方で芸藩の外へは言うまでもなく、藩内でさえ、在所への独り歩きは許されないという拘束に縛られていた山陽は、その年来の「三都に出て、名を四方に揚げ度く」という大志を遂ぐべくもなかったが、それだけにその心中にわだかまる鬱憤をはらそうとしたのだろうか、この年になると、またしても遊蕩に明けくれする日々を送りはじめたことは、すでに前回で述べたように、このたびは養子の景譲もまた、ともに遊蕩に耽りはじめたのだから、当時の春水夫妻の心痛はさだめし旧に倍するものがあっただろう。》

とても達者な文章に驚くが、このへんになるとシュールな笑いがこみ上げてくる。まだまだ先は長いが引用が長くなるのでこのくらいで。