東洋文庫 後は昔の記 林董回顧録 (1911)

林董は1850年佐倉に生まれる。漢学を修め12歳の時幕府御典医林洞海の養子となる。ヘボン夫人の英学塾に入門し幕府派遣英国留学生となる。開陽丸の乗組員になり榎本武揚の教えを受けるが反乱軍として捕られ弘前藩禁錮となる。その後は外務省書記官となり岩倉大使欧米派遣に随行する。工部省で工部大学校の設立に携わりロシア皇帝戴冠式にも随行、帰国後逓信省に移る。香川県知事、兵庫県知事となったのち外務次官に就任。日清戦争勝利後、清国駐留特命全権大使として戦後処理にあたる。駐露公使、駐英公使となり日英同盟締結に携わる。外務大臣逓信大臣を歴任したのち引退、葉山で没する。

その経歴もさることながら出くわした歴史上の事件の多さに驚く。事件について自身の見立てや裏話的なことが衒いなく記されている。本書は「回顧録」、「後は昔の記」、「日英同盟の真相」の三編からなる。ごく一部を紹介する。

ヘボン氏と父との問答

ヘボン氏は宣教師にて、其頃、和英辞書編纂に従事して居たるが、医学士なるを以て、傍ら慈善治療を施すことを午前の日課となしたり。予が父も、医を業としたるを以て、時々ヘボン氏方にて治療を見たり。或時、卵巣水腫の病人を見て、ヘボン氏、「是れは難治の病気なれば、治療の仕方なし。天帝に祈祷して其迎を待つの外なし」と云う。我父遮りて、「之を切断しては如何」と問う。ヘボン氏答えて、「切断の法はあれども、殆ど必ず死する症なり。寧ろ試みずして天命を待に若かず。」父曰く。「某佐倉に在りし時、切断して加療したる女二人あり。」ヘボン氏笑て、「予は如何にしてもも某を信ずる能わず。」という。我父が、佐倉にて卵巣水腫に手術を施し、治療の目的を達したりし事は、予のよく記憶する所なり。当時施術者は、医科辞書の如きものに因りて施術し、必ず治癒すべきものと思て刀を執り、患者は又た、医師を信じて治を受けたり。其間神経療法の如き理由ありて、全治したるならんか。従来西洋医術の開くるに従いて、卵巣水腫の切開は殆ど必死と認められ、施術を受けたる患者皆な死したるが、近来医術の益々進むに従い、此病気は又大抵治癒し得べきものとなれり。人間万事之に類すること少なからず。(後は昔の記より)