東洋文庫 アンコール踏査行 (1880)

著者のルイ・ドラボルトはまず当時のカンボジアとフランスの関係について簡潔に述べている。以下引用文。

カンボジアは、同じくこの大河にうるおされ、南はフランス領コーチシナと境を接する国で、これと合わせてアジアの端におけるフランス領の全体を形成している。古代クメール王国の最後の名残であるこの小国は、フランスが隣邦安南帝国とシャム王国の二重の束縛から解放し、代償としてその保護国になることを受諾させて以来、どうやらフランスの植民地に加えられるようになった。 カンボジアの面積は、今日ではフランスの県の四つか五つくらいに縮小されている。広大な沼沢、草木の乏しい岩の多い原野、幾すじとなく川が流れている密林、ひじょうに肥沃な沖積地帯になっている。これらの河川の岸辺の人口は100万に達し、未開の遊牧民と、部落や小さい町に住んでいる半開の種族に分かれている。河にそった所はかなり賑やかであるが、そのほかはどこへいっても人家はまばらである。土地柄は、概して憂鬱単調で未開的であり、全く無人の広大な場所さえある。至るところに疲弊があらわれている。われわれが初めて首都オドンOudongでカンボジア王に会った時もそうであった。籐と竹で作った一種の納屋で引見されたのであった。(略)》

いよいよ探検が始まる。

1873年10月28日午前8時、クメール遺跡探検隊員の乗りこんだ砲艦ラ・ジャヴリンと、大型汽艇第5号はサイゴンの港を後にした。》

海に出た探検隊はメコン川を遡上しプノンペンに至る

《十年このかた、カンボジアの首都、王宮の所在地、フランスの保護国の都になったプノンペンは、目ざましい発展をし、はやすでにほとんどヨーロッパ風になった。目抜きの通りをなしていた竹で作った小家屋があった主要部分は、ノロドム王の収入で建てられた煉瓦造りの家に置き代えられ臣下に貸されている。主に湖水の漁期に行われるこの町での莫大な取引は、もとは天朝帝国のものであった南部諸州の現地商人たちの手にほとんど全部が集中される。何かと政府に重大な面倒を起こすこの団結した中国人商人は、幸い二つの競争的組合に分かれてたえず抗争している。そのほかプノンペンには、多くのベトナム人、マライ人、タイ人、少数のヨーロッパ人がいる。(略)》

いくつかの廃墟群を探検した後、探検隊はアンコール・ワットに到着する。

アンコール・ワットは、クメール建築物のうちでもっともよく保存され、一目で全体を把握できる今日残っている唯一のものである。(略)園の外、この西側から近づいて行こう。 前景に、九頭の巨竜と唐獅子に取り巻かれた広場、つぎに堤で画した広い池、橋が一つかかり、池へ降りて行く大きな階段が中央にあって列柱がついている。さて、つきあたりには、堡塁の単一ゴブラ楼門のかわりに、美しい柱廊が池の岸にのび、ぎざぎざの層段塔をいただいた三つの中央入口があり、両端に車や象の通路のための二つの大きな車寄せがひらいている。四方には鬱蒼たる樹木、遠くには無数のシュロの葉先にあわや見えなくなろうとしている高い本堂の五つの塔。これが、魔法の棒をひと振りしたように諸君の眼前に突然現れる雄大な景色であり、森の暗い丸屋根の下道を出はなれると、大樹林の境界をはっきりと示している濠ばたに出る。》

この後、探検隊は蒐集した考古物をフランスに運びこの資料がクメール研究の端緒となったのである。