東洋文庫 随筆北京 (1940)

  慶応出身の中国文学者奥野信太郎のエッセイである。著者は1936〜38年の間北京に在留し銭稲孫、周作人らと交流する一方グルメを堪能する。事変前の北京は洗練され落ち着いた雰囲気の古都だったという。隆福寺の廟市のにぎわいや琉璃廠の古書街、それに隣接した遊郭の八大胡同の事を簡潔に述べている。著者は北京飯店の屋上で夜空を見ながらハイボールを楽しむような人物である。銭稲孫は源氏物語紅楼夢の文体で支那語に訳出中であるという。

  北京籠城
  1937年7月7日に盧溝橋事件が起ると北京は封鎖され日本人は命令を待って大使館区域(交民巷)に避難することになる。街中に土嚢が積まれ保安隊が警戒する。屋上には機関銃が備え付けられる。外出は危険である。著者も一度呼び止められ尋問されるが中国語が流麗なのと知人がいたおかげで無事解放された。銃剣で刺されたり全裸にされた邦人もいたという。
  27日に避難命令が出されると著者はカバン一つ持って車に乗り交民巷に入る。正金銀行の図書室があてがわれる。毎日食事がでるが暇を持て余すと図書室の本を読んだという。そのうち通州事件(7月29日)の報せが届く。著者は食料の運搬、夜警の仕事を受け持つ。8月8日皇軍が入城し翌日には解放された。

  情勢が落ち着くと北京の演劇界はかえって隆盛になる。北京には富連成と戯曲学校という二つの俳優養成所があり演劇文化に寄与している。著者は女起解や金山寺を楽しみ、三国志演義の内のいくつかの演目である武戯、借東風、撃鼓罵曹を堪能し今でも眼に浮かぶという。

  支那人の考察では女性に着目している。石評梅、陸素娟、春鴻についてページを割いている。春鴻の写真があるがすらりとした美人である。