本書は義経記の口語訳及び注釈からなる読み物である。本文より弁慶の修行時代の話を紹介する。
《比叡山を出て、その麓の大原の別所というところにある、延暦寺の法師によって住み荒らされた庵室で、べつに誰から引き止められたというわけでもないのに、しばらくの間は尊げな様子をして暮らしていた。けれども、稚児であった時でさえも容貌が悪く、性質も変わっていたため、人から相手にされず、まして訪れて来る人もなかったので、この大原の別所での暮らしも、まだいくらもたたないのに落ち着くことができず、ふらふらと庵室を出て諸国修行に行こうと、また飛び出した。
まず、摂津国を流れる神崎川の川口の河尻というところに出て、難波潟を眺め、兵庫の島などを通って明石の浦から船で阿波国へ渡ると、焼山やつるが峰(剣山)を拝んだ後、讃岐の志度の修験道場や伊予国の菅生に行って、土佐の泰村にある泰泉寺にも参詣した。
こうして正月も末になったので、弁慶はまた、阿波国へ戻った。》
血筋もなかなかいい弁慶はこのようなことになっていたのである。次に稚児の頃の義経の話を紹介する。
《「吉次の奴から絶対に目を放すな」と賊どもは口々に喚きながら乱入してきた。
屏風の陰にいる人に気付かず、松明を振りかざしたところが、そこに、一とおりではない美しい姿が浮かび出た。奈良でも、比叡山でも、その美しさで知られた稚児が、鞍馬を出たそのままの姿なのだから、色はきわめて白く、鉄漿をつけ、眉を細く描き、被衣を被ったその姿を見れば、まるで、万葉集に歌われている松浦佐用姫が夫を見送って、山から領布を振ったその美しい姿が、そのまま年を経てしまったのかと思われるし、その寝乱れて見える細い眉は、鶯の破風にも傷むかと疑われるほどであった。あの玄宗皇帝の世ならば楊貴妃に、漢の武帝の代なら李夫人かと疑うことのできる美しさであった。》
吉次という黄金商人に連れられて都落ちする義経らが逗留している旅館に、盗賊が押し入り乱闘となるが、義経はこの後切り込んで行き盗賊たちをあらかた倒したのである。
難波潟のところの記述は日下雅義著『平野が語る日本史』を読んでいると面白く感じる部分である。