東洋文庫 日本疾病史 (1912)

著者の富士川游はこの名著を著したばかりでなく随分色々な先駆的活動を行なっている。このことは巻末の年譜に詳しい。例によって本文の一部を紹介する。

《疫病

疾病の種類は、雑多にして、屈指列挙するに暇あらず。その中の一種にして、一定の時期に、同様の性状を持って、国民の多数を侵すものあり。これを総括して、疫病と称す。而して、疫病の発生は、社会状態の変動に関渉し、国家の政治、経済、及び倫理に影響あること鮮少にあらず。(以下略)》

これは今の世界の状況を良く言い表しているのではないか。続いて各論に移る。

《流行性感冒

名義

流行性感冒は、明治二十三年の春、我が邦にインフルエンツァの大流行ありしとき、新に用いられたる名称にして、該病の状態に基づきて名づけたるなり。この病、昔時より我が邦に存せしか否かは詳らかならず。平安時代の記録に、咳逆、咳病、咳逆疫等の流行を記載せるものあり。(略)「源氏物語」夕顔の巻に、『この暁よりシハブキヤミにや侍らん』といい、また「増鏡」に『元徳元年、ことしはいかなるにかシハブキヤミはやりて人多くうせ給ふ中に、云云』といいうもの、すなはちこれなり。(以下略)》

本書はウイルスの存在が知られていない時代の論考である。従って原因の項は文献にある諸説を並べているだけのようである。

各論を見ると思ったより論及する疾病の数は少なく、痘瘡、水痘、麻疹、風疹、虎列刺、流行性感冒、腸窒扶斯、赤痢の8疾患であった。

最後に松田道雄氏による解説文がわかりやすく面白かったので引用する。

《腸窒扶斯

サルモネラ菌でおこる腸チフスが単一の疾患であることが認識されるのは、西欧では十九世紀になってからである。熱以外に症状の少ない疾病は検査手段の乏しい時代には洋の東西を問わず診断のむずかしいものであった。西欧で腸チフスがそれとして診断されるようになるのには、おなじように熱を主徴とする発疹チフスが減少してからであった。日本では熱性疾患を一括して傷寒と呼んで対症療法をしていた中国医学の影響からやっとぬけだしはじめたころに、腸チフスの独自の症状が記載されるようになった。それが十九世紀前半であるから、西欧とほとんど同時であったといえる。》