フォークナー短編集(3)

『ある夕陽』まで来た。一読すると登場人物が交錯気味で、再読しなくてはならないようだ。殊に終わりの場面で出た「私たち」という言葉に引っかかる。私とは誰なのか。そんな人はいないような気がする。

冒頭の情景描写から熟読してみよう。

《しかし十五年前には、月曜日の朝といえば、静かな、ほこりっぽい、木陰の多い街路は、黒人の女たちでいっぱいだった。彼女たちは、巻布をぐるぐるまきつけた、すわりのいい頭の上に、敷布をまいた、綿梱ほどもある衣類の束をのせて、釣合いを保ちながら、まったく手を使わずに、白人の家の台所口から、黒人盆地にある丸木小屋の戸口にすえた、黒光りのした洗濯釜まで、その荷物を運んでゆくのだった。》

《ナンシーは頭のてっぺんに洗濯物の束をのせ、さらにその束の上に、彼女が夏冬かかしたことのない黒い麦わらの水兵帽子をのせるのであった。彼女は背が高く、額の高い、寂しそうなその顔は、口もとのあたりがすこしへこんでいた。歯が抜けたためだった。ときおり私(訳注 「私」はクウェンティン3世で、コンプソン家の長男)たちは、彼女といっしょに小道を少し歩いたり、牧場を横切ったりしたのだが、それは、溝の中に下っていって、反対側にのぼっていったり、柵をくぐったりするときすらも、洗濯包みが頭の上で上手に平均をとられているさまをながめたり、麦わら帽子が、ひょこひょこ動いたり、左右に揺れたりすることのないのを見るためだった。》

「私」はクウェンティン3世ということが判明したが、会話で何か喋っただろうか。