失われた時を求めて (100)

アルベルチーヌにドストエフスキーその他の文学論を論じた後この様に述べている。以下引用文。(吉川一義訳)

《というのも、レオニ叔母の財産を相続したときに私はスワンのようにコレクションを持とう、いろんな画や彫刻を買おうと心に決めたにもかかわらず、その金はそっくりアルベルチーヌのための馬や自動車や服飾品を買うことに費やされてしまったからだ。だがこの部屋には、そんなコレクションよりもずっと貴重な芸術作品が収められているではないか?それはアルベルチーヌ自身だ。そう考えて私はじっとアルベルチーヌを見つめた。》

これはちょっと赤面ものの文章である。アルベルチーヌに首ったけならともかく、今まで述べてきたことと整合性が取れていないのではないか。この後に展開されるピアノラ(自動ピアノ)の前に座るエレガントなアルベルチーヌの描写が素晴らしいだけにこの一文は残念である。

読み進んでゆくと自らこの発言を完全否定している。

《いや、そうではない、アルベルチーヌは私にとっていささかも芸術作品などではないのだ。(略)いや、じつをいえば、アルベルチーヌをみごとな古色をおびたひとりの奏楽天使のように眺め、それをわがものにしていることに嬉しくなりかけても、私はすぐさまアルベルチーヌに無関心になり、やがてそのそばにいるとうんざりした。》

さらにこのように述べている。

《私がいつかサン=ルーにいだいた嫉妬も、かりにまだ続いていたとしても、これほど途方もない不安をけっして与えはしなかったはずである。この女同士の愛情なるものは、あまりにも未知のことがらで、その快楽や美点がいかなるものかを確実に正しく想い描かせてくれるものはなにひとつない。》

こういう所にプルーストの不安が凝縮しているのである。