失われた時を求めて (87)

ある夜、嫉妬心からアルベルチーヌに意地悪したプルーストは、怒って部屋に帰ったアルベルチーヌの態度に驚き、うろたえる。この口調は寅さんの口上の様に聞こえる。以下引用文。(吉川一義訳)

《私がベッドから跳びおりたときは、アルベルチーヌはもう自分の部屋の中にはいっていて、私は本人が出てきて私を呼んでくれはしないかと期待して廊下を行きつ戻りつした。アルベルチーヌの部屋の前にじっと立ちどまり、かすかな呼び声も聞き漏らすまいとしたあと、いったん自分の部屋に戻って、恋人がハンカチなりバッグなりを運よく忘れていないか、それがなくて困っているだろうと心配した風を装ってアルベルチーヌの部屋にはいる口実はないかと、あたりを見渡してみる。だがなにもありはしない。私はふたたびアルベルチーヌの部屋のドアの前に立って中をうかがった。しかしドアの隙間からはもはや光は見えない。アルベルチーヌは明かりを消して寝てしまったのだ。私はそこにじっと立ちつくして、なんらかの幸運を期待するが、そんなものがやって来るはずもない。そうしてずいぶん経ったあと、私は冷えきって部屋にもどり、毛布にもぐって一晩じゅう泣き明かした。》

その翌朝こういう会話をする二人はもう狐と狸である。

《「ねえ、お願いだから、このあいだみたいな曲乗りはしないでくれよ。考えてもごらん、アルベルチーヌ、もしきみに万が一のことでもあったら!」もちろん私はアルベルチーヌにどんな災いも起こらぬことを願っていた。しかし本人が馬に乗って、どこか好きなところへ行ってしまい、もう二度と家に帰ってこなければ、どんなにいいだろう!どこか別の場所で幸せに暮らしてくれたら、どんなに事が簡単になるだろう、その場所がどこかなど私は知りたいとさえ思わないだろう!「あら!よくわかっているわよ、もしそうなったらあなたは二日と生きていられないって、きっと自殺してしまうでしょうね。」そんなふうに私たちは心にもないことばを交しあった。》