幕府の旗本である川路聖謨(かわじとしあきら)が佐渡奉行として任地に赴く際に書いた日記風の手紙をまとめたものである。板橋駅から始まる。盛大な送別会の後まるで諸侯の行列のような隊列を組み中仙道を進んで行く。その日は上尾宿に泊まる。翌日は十三里余の行程で本庄宿に着く。此処では余裕が出たのか和歌を九首詠んでいる。その内の一首。
きのうよりきょうはひなぶり弥まして
遠ざかり行く都しるかな
その日は途中の籠原の建場で小休止した。美味しい牛蒡があると聞きそれでご飯を二膳いただく。
翌日、本庄宿を立ち新町の船渡しに着くと川は増水していた。やっとの事で川を渡り玉村宿に至る。萩原村に行こうとするが道が冠水しその日は断念した。次の日道を変えて萩原村に着く。小休止後利根川沿いに右手に赤城山、左手に榛名山を見ながら進む。惣社、大久保、八木原の村を過ぎ渋川村に至る。素朴な山村で玉村のように浮かれ女を置くような悪しき風俗も見られない。ここでも五首詠んでいる。その内の一首。
山の端にかゝる白雲かすかにて
麓のさとのけぶりかとみる
翌日は川留めで渋川に逗留する。ここでまた三首詠む。その内の一首。
うれしくもしばし忘れし故郷を
あわれ笛の音吹起こす哉
ここの本陣は茶人の心得があり掛物もよし香炉もよし料理もなかなかのものである。
翌日も渋川に逗留。経書、通鑑を読み七首書き記す。その内の一首。
古郷も旅の軒端のさゝがにも
かりの世に住む身はかわらじを
翌日は渋川を立ち南牧の関所で鉄砲改めを受ける。吾妻川沿いに進み万年橋を渡る。原町を経て中之条村に止宿する。この道は草津の出湯に行く者のほか通るものはない。この道中では人馬の世話に百姓供が奔走してくれて有難い。
中之条を立ち相川、須川と山道を往くと三国の往還に入る。猿ヶ京の関で鉄砲改めがあり永野に止宿。
永野宿を立ち国境の三坂神社で餅と神酒を奉納し三国峠に至る。雨が勢いを増す。このような描写である。
きょう、三国峠へ参りし頃は、雨殊に甚敷く、風もありて、四方雲立覆い、嵐に雲を巻き吹送る様、いとすざまじ。雲深く雨甚敷く、二、三十間の先はみえわかぬ程なり。雨の木の葉にかゝる音、夥しき事也。
霧深き磯辺をたどるこゝち哉
雲分け昇る雨の山ふみ
峠を越えると浅貝の宿に至り小休止する。そこより島が原、山鳥の原という芝野をこえ、二居峠、中の峠ををこえ三俣宿に泊まる。この村々、殊にひなぶり甚だしと評している。
三俣を出でて芝原峠、湯沢、関、塩沢、六日町に至る。段々と町並み、稲草の生い立ちが良くなってくる。
この辺、女共関東と大に変り、なべて色しろし。又、小児の多きこと夥し。関には奈良漬の名物あり。
と記している。さらに旅は続き佐渡にて、佐渡巡見、帰府までと記したところで日記は終わる。