東洋文庫 日本雑事詩 (1879)

定本の序にこのような文がある。

《わたしは丁丑(1877)の冬、命をうけて日本にわたり、二年になっていた。そのとき、すこしばかり、その国の文化人と交際をし、その国の書をよみ、その国の風習をならった。そこで「日本国志」をつくろうとおもいたち、ふるい言いつたえをあつめ、新政を参考にしたが、そのおり、そのこまごまとした事がらを取りだして、それを説明した解説をかき、それに詩をつけそえた。これがいま世に行われている「日本雑事詩」である。》

このように著者である黄遵憲自らが本書を解題してくれている。本文を少し紹介する。

《21 北海道

舟鮫 衡鹿良材に富む

椎結 夷風 草昧開かる

昨夕鯨を屠り 今虎を射

明朝 跣足にて 書を読み来る

北海道は、もとは松前候に属していた。明治二年、11ヶ国にわかち、さいしょは諸藩を分担して開墾させていたが、のち開拓使を専任して、これをやらせた。ここは山林や藪沢がいっぱいで、土地はこえているが土着民は耕作せず、毎日弓や矢をもって狐狸を追ったり、鯨をとったりして、くらしている。風俗は、いれずみをし、蓬髪で、穴居し、なまものをたべているありさま、まだ太古のままで、ひとのいいなりになるところがある。ちかごろでは、すこしは読書するものがある。》

《58 女子師範学校(1) (漢詩は省略)

明治九年、皇后は御内帑金を下賜、士族・華族のむすめ百人をえらび、教師をまねいて、これを教え、女子師範学校と名づけられた。三年たつと女教師になることができる。入学の日や卒業のときには皇后が親臨されて、きらびやかなことである。政府の大官や女官もまた礼装をして、おともをしてやってくる。このときは、大人も子供もみな門前にひざまずいて迎え、講堂で最敬礼をする。これは盛典とし校史に記録される。このとき優等生には書物や衣服の御下賜品があることがある。》

《61 古代文字 (漢詩は省略)

神代にはもともと文字があって、推古朝になってもまだ卜部家に蔵せられていたという。近世になって平田篤胤神代文字の説を主張した。その根拠とする鎌倉八幡寺や大和三輪寺の額はみな文字がぼんやりしていて、よくわからない。わたしの見たところでは、だいたい蝌蚪の形に似ていたり、篆書のようでもあって、いつはじまったかわからない。ただ世間では肥人の書、薩人の書(平田篤胤神字日文伝」にある)というものを伝えている。たとえば、一二五をI II I・I・I につくっているが、いまのアイヌはやはりこれをもちいている。「五」の字以外にアラビヤ数字のように点画をかえているのもあり、あるいは○や◻︎をかいているのもあり、鳥獣草木の象形をえがいているのもある。かんがえてみると、どの国でも、字をつくるときには、象形のはじめには、きっと数をあらわす文字をさきにする。たとえば「一二 I II」のようなものである。「阿」(ア)の字は、まさしく字母のさいしょのもので、子供がうまれおちると、まずこの声をだすもので、天地の最初の音なのである。》

興味深い記述が多いがこのくらいで終わりにする。