東洋文庫 蜀碧・揚州十日記他 (1742)

「蜀碧」は明末において農民反乱軍の首領である張献忠が四川に侵入して重慶成都を陥落させ大量虐殺を行った史実についての記録である。官軍と戦って転戦しながら重慶を陥すところまでが滅法面白い。そのくだりを紹介する。

◯6月20日、賊は重慶を陥れ、瑞王常浩および巡撫陳士奇以下諸官が殺された。

重慶下流四十里のところに銅鑼峡というのがある。長江上流の要害がある。 陳士奇はここに大軍を置いて固めていた。六月八日、張献忠は涪州にはいると、ただちに水軍を銅鑼峡に差し向けた。そしておのれは山に登りその中を急行すること百五十里、江津を破ってその地の船を奪い、流れに乗って攻め下ると、十七日には仏図関を乗っ取った。銅鑼峡はその下流にある。賊に仏図関を奪われたと知った兵士たちは、浮き足立ってなすすべを知らず、戦わずして潰え去った。(略)

次に虐殺の様子を紹介する。虐殺の記述は次から次へときりがないのでこれだけにする。

◯賊が成都の住民を一掃した

はじめ、張献忠は成都を陥れたとき、三日間にわたり大殺戮を行ったが、孫可望に諌められて暫く中止した。そのかわり、兵士を二列に並べて道をつくり、その中を住民を一人一人歩かせて調べ屈強な男や若い女を選びだして、兵営に入れた。このため、民間の親子夫婦は、すべて生き別れとなり、二度と会うことはできなかった。また、兵を四方にくり出して、住民をむりやり帰順させた。すべての府県に偽官を置いて統治させたが、苛烈な徴発と、日ごとにつのる殺人に、人々は怒りと恐れを抱き、よりより集まって賊に抵抗しようと謀り、偽官を追い払いまた殺すに至った。そこで張献忠は、「昨夜天書が庭に降った。蜀人を根絶すべし、背くときは罪の恐ろしさを知れとの仰せである」と、人々を偽り、人民を十人ずつ数珠つなぎにして中園に追いこみ、ことごとく殺したのである。(略)

併録されている「嘉定屠城紀略」「揚州十日記」は清軍が江南江北において行った大虐殺の記録である。内容については省略する。