東洋文庫 白凡逸志 金九自叙伝 (1947)

本書は 亡命中の金九が上海と重慶で執筆した自叙伝である。当時金九は大韓民国臨時政府主席であったという。このような記述がある。

《安進士は、海州府中に十余代もつづいた旧家の出だった。進士の父の仁寿は、鎮海県(慶尚道)の県監(長官)を勤めたが、そのご世の中が騒がしくなってくるのをみて隠遁の志を抱き、膨大な財産を貧しい一族に分けてやったすえ、約三百石の小作料収入のある財産のみをの押して清渓洞に入り住んだ。山川が秀麗なのと、乱を避けるのに適当であることから、この土地を選んだのだった。このとき仁寿の長孫の重根は二歳だった。

安進士は、科挙を受けるためにソウルの金宗漢(1844ー? 李朝末年の文臣)の門客となって長らく都に留まっていたが、進士になると官職につく志をすてて家に帰り、兄弟六人して酒と詩に歳月を過ごし、志のある友と交わるのを楽しみとしていた。 (略) そのころ安進士の長男の重根は十三歳で、ちょんまげを結っていたが、頭を紫の布できちっとしばり、トムパン銃という短銃をかついで毎日狩猟に日を過ごしており、見るからに英気勃々としていた。清渓洞の兵士のなかでも射撃術は抜群で、獣でも鳥でも狙った獲物は逃したとがないというので有名だった。》

このような記述がある。

《さて七月のあるひどく暑い日のこと、突然、囚人全部が教誨室に召集されたので、わたしも行って坐った。やがて分監長の倭奴が、一同に向かって、 「五十五号!」 と呼ぶのだった。 私は、返事をした。すぐに起立して出てこいということなので、壇の上に上がっていった。すると「仮出獄で釈放する」との宣言がなされた。集まっている囚人たちに向かって礼をし、すぐ看守に連れられて事務室に行くと、服を一着出してくれた。》

《数日後、邑内の李仁培の家で、わたしのために慰労宴が張られ、妓生を呼んで歌や踊りをさせた。ところが宴会の途中で、わたしは母上に呼び出され、 「わたしが何年も苦労したのは、きょうまえが妓生を侍らせて酒を飲むのを見るためではなかったのだよ」 と、おこごとをくった。わたしを宴会の席から呼び出したのは、わたしの妻が母上に告発したためだった。》

真面目な本なのか冗談なのか、まあ饒舌で真実味に乏しい文章であることは確かである。