東洋文庫 日本の茶書 1 (1971)

林屋辰三郎氏による「茶書の歴史」の章より内容を紹介する。

茶の起源において特に重要なのは、唐の時代(760年ごろ)に書かれた陸羽による『茶経』 三巻と、遣唐使として35年間唐に滞在した僧の永忠である。

《さて唐の風俗は、すべてが王朝人のあこがれであった。しかし奈良朝の留学生や留学僧は、唐の制度や仏典に関心を持ち、その摂取に懸命となって、あわただしく帰ってくるために茶の種子までも伝える人はなかなか現れなかった。ところが延暦二十四年(805)七月に、その前年に入唐した僧最澄が、遣唐使やその他の留学僧らとともに唐から帰朝した時に、僧永忠というものが同船していたのであった。彼については、『元亨釈書』という鎌倉時代に作られた仏書に伝記が載せられていて、それによると、京北の人で、姓は秋篠氏といい宝亀の初めに入唐留学して、延暦の末に使に随って帰ったが、彼は経論にわたり音律を解し、斎戒欠くることなく、桓武天皇の勅によって近江の梵釈寺の主とされたという。この永忠は、僧侶としても立派な人物であったことが判るが、趣味もたいへん豊かな人であったとみえて、音楽を学んで、唐で所得した律呂旋宮図、律菅十二枚、塤(ふえ)一枚といった音律に関する品物も持ち帰った。(略)

さて、正史の上で、日本に喫茶のことが知られるのは、『正倉院文書』に「茶」という苦葉のことが見えるのを別にすれば、『日本後記』の嵯峨天皇弘仁六年(815)の四月廿二日条である。この日天皇は、近江滋賀韓崎に行幸したが、崇福寺に詣してのち梵釈寺を過ぎるとき、大僧都永忠が手自ら煎茶して献じたという。天皇はこれに対して御被を賜ったが、よほど感ずるところがあったか、同年六月に令して、畿内ならびに近江・丹波・播磨などの諸国に茶を植え、毎年献進させることにした。日本の茶は、このあたりから根づいたと云えるのだが、このとき永忠の献じた茶は、おそらく最澄の将来と伝えて、東坂本の日吉社のかたわらに育てられたものにちがいなく思われるのである。》

この本では茶経については概要しか書かれていないので、詳しくは別を当たっていただきたい。また和書については六巻ほど紹介されている。

ついでに当時におけるジャズ喫茶のような光景が記されているので紹介する。

《(略)それは喫茶と音楽が一つの世界を形成していた事実を示している。このことは、茶種の将来者の永忠がふかく音律を愛していたことを想起させるのである。

閑院の池亭のような苑池のほとりに、『安祥寺資財帳』によれば縄床毯を敷き、白氈を重ね、屏風をあしらいそこに茶床子(椅子)を並べたいわゆる「立札」で、静かに琴の弾奏をききながら茶を喫する。まさに

粛然幽興処

院裏満茶煙

というように、幽興の世界というべきものであった。》