東洋文庫 明治日本体験記 (1876)

本書はグリフィス著 「皇国(1876)」の序文と第二部の日本語訳である。

グリフィスは1870年(明治3年)に福井藩のお雇い外国人教師として横浜にやってくる。

横浜の情景

静かな古来の富士から目を移すと日本在住の外国人のにぎやかで新しい町が、日の光をいっぱいに受けて見えてくる。船はミシシッピー湾(根岸湾)とトリーティー・ポイント(本牧岬)を過ぎて、かつて小さな漁村であったが今は横浜という立派な町の正面に着く。港に停泊している船舶を数える。三十から五十の船がふつう港に入っている。函館、上海、香港からの汽船、マルセーユ、サザンプトンからの定期郵便船が停泊している。木造軍艦、甲鉄船もいて、イギリス、フランス、日本、ドイツ、アメリカの国旗が翻っている。おびただしい数の無駄で高価な礼砲が軍人によって打ち出される。だからこの国の人は軍艦のことをポンポンフネと呼んでいる。

外国人居留地は1マイル四方の平地に配置されているようだ。その右にもう1マイル四方の日本人町が広がっている。平地の向こうに「山手」と呼ぶ半円形の丘陵があり、建物の大きさも形も違う美しい住宅や別荘が数十軒も立ち並んでいる。(中略)居留地の海岸に沿ってバンドと呼ぶ立派な広い舗装道路が走っていて、その海側は石造りの頑丈な壁になっている。

東京の様子

天皇の政治が東京で活動を始めて二年たったが、少しも安定した土台の上に立っていなかった。外国人の三度の食事の話題はいつも謀反と風聞であった。今日、薩摩が天皇を連れ去ろうとすれば、明日は「大君」が連れ戻される。その次の日は外国人が東京からも日本からも追い出される。東京は疑い深い大名の引き連れたさわがしい武士でいっぱいであるばかりか、数百人の尊王攘夷の暗殺者がいて、神々に仕え、国のためになることをしていると思って、道行く外国人に向かって突き進んでくる。

東京には富士山が裾野から頂上まで見える場所が多いが、なかでも愛宕山、神田坂上駿河台はそうだ。駿河台は実際、駿河にいて富士山を見るように壮大に見えるところから名づけられた高所である。

グリフィスの仕事

越前藩との打ち合わせが終わった。私は福井の町で自然科学を教えることになった。そこは越前の首府で、東京から二百マイル西方、日本海から十二マイルのところにあった。外国人と日本人の間で守られる慣習に従って契約をし、外務省の検閲と許可を受けた後、立派な漢字と簡潔な英文で正副二通が清書された。私は三年間化学と物理を教えること日本の商人といかなる商売もしないことに同意した。教師は酒に酔ってはいけないという変わった文句が一筆入っているが、アメリカ人には実に滑稽でも、日本人のにがい経験からして、全く正当だといえる。

役人の方で同意したことは、給料を支払うこと、西洋風の家を建てること、三年後、横浜まで無事に帰すこと、万一私が死ぬような事があれば、死体を合衆国領事に渡すこと、病気で勤めができなくなったら領事に連れて行くこと。宗教についてはどこにもふれていないが、日曜日はどんな勤めからも解放されて自分の家で自由に好きなことを話し、教え、行動してもよいと保証された。

女性の地位

ここでは女性が東洋の他の国で観察される地位よりもずっと尊敬と思いやりで遇せられているのがわかる。日本の女性はより多くの自由が許されていて、そのためより多くの尊厳と自信を持っている。子女の教育は良くなっており、この国の記録にはおそらくアジアのどの国よりはるかに多くのすぐれた女性が現れるだろう。(中略)改良された糸繰り機の導入と茶の生産地の拡大が女性の職業の分野を広げたため、貞淑な女性の数を増やし、遊女の数を減らす傾向になってきた。とりわけ日本国中の男子だけでなく女子も教育するという遠大な計画と、若い女性のための高度な学校の設立は、日本における女性の地位の向上と能力の開発が望まれているすばらしい証拠である。

帰国後グリフィスはニューヨークのユニオン神学校に入学し牧師となる。これらの体験と調べた資料により「皇国」を執筆し晩年には福井を訪問している。