失われた時を求めて (5)

やはりこの小説は表現力といい、作者の徹底した生き方といい、凡百の小説から抜きん出たものがあると言える。時代背景にも稀有なものがある。

家政婦のフランソワーズについて語られる。プルーストによるとフランソワーズはこんな人である。本文から一部引用する。(吉川一義訳)

《なにしろ朝の5時から台所に立ち、同じ形のまばゆい丸ひだでできているから素焼きの陶磁器と見まがうボンネットの下に、荘厳ミサに出かけるときと同じように美しく化粧した顔がある。なにごとにも立派にこなし、元気な時も体調不良のときも馬車馬のように働き、それでいて物音一つ立てず、なにかしている気配がない。》

《qui était aussi belle dès cinq heures du matin dans sa cuisine, sous son bonnet dont le tuyautage éclatant et fixe avait l’air d’être en biscuit, que pour aller à la grand’messe; qui faisait tout bien, travaillant comme un cheval, qu’elle fût bien portante ou non, mais sans bruit, sans avoir l’air de rien faire,》

読んで行くとフランソワーズは結構いい年のおばちゃんのようだが、神経質でおしゃべりなレオニ叔母の扱いには非常に長けている。