NHKスペシャル 将校は、砂漠に木を植えた~インドに渡った隼戦闘隊員~(2016)

 一人の元日本軍将校(陸軍技術将校大尉)が、インドの地で植林を行い砂漠から農地へと大地を蘇らせるというあまり知られていない偉業の映像が冒頭に流れ驚かされる。 以下はその経緯である。

 杉山龍丸は福岡に農場を持つ裕福な家に生まれる。父親はあの夢野久作だった。祖父と父が早く亡くなったので、龍丸は家族を助けようと陸軍士官学校に入学する。するとまもなく日米が開戦する。いわゆる太平洋戦争である。陸軍航空技術学校に進んだ龍丸は、日本は大義がなく敗戦すると考え、戦争を止めさせようと同期生らと語り合ったという。

 同期生だった牧勝美氏(96歳)が証言する。同じく同期生の佐藤氏が東条の家に行き直談判しようとしたが門前払いを食らったという。その時の東条の言葉はこうだった。「何を言うか青年将校が、もっと自分の仕事を一生懸命やれ」

 九州大学所蔵の杉山龍丸の手記にはこうあった。「すでに和平、講和のチャンスは去ったし、日本の軍人に生産や技術に関する必要な常識や知識を持っている人もいないので、ブレーキのない車で坂を走るようなものである。」

 同期生の早川総之助氏は証言する。龍丸たちはクーデターを計画し、それが上官たちにもれる。これが原因で龍丸は前線に送られたのだという。手記にはこう書かれている。「日本は行くとこまで行かねばならぬ。いつどこでわが命終わるとも悔いなし。」

 フィリピンに送られる途中、龍丸を乗せた輸送船は魚雷攻撃を受ける。彼は真っ暗な海の中13時間漂流したのち救助される。任務はネグロス島のファブリカ基地を死守することであった。これが飛行第31戦隊だ。戦力は隼24機である。

 操縦士村上浩氏、整備隊員香田克己氏、部下中村博浩氏らの証言では、機体は油漏れがひどく、工具も部品もなかったという。龍丸の手記によると「燃料は2出動分、機関砲弾と爆弾は1出動分、潤滑油はなしであり、その他の消耗品もゼロの状況であった。」とある。補給のことで飛行団司令部としばしば口論になったと言う。  

 程なく米軍の機動部隊に発見された基地は攻撃を受ける。迎撃に出た12人は戦死する。この日の整備日誌が残っている。天皇陛下万歳、機上で死ぬのです、畜生英米野郎と書かれている。その後ネグロス島は爆撃される。

 ある日のこと、龍丸は部下に尋ねられる。 「日本はこの戦争で敗れるであろうと思いますがいかがですか?」 こう答えた。 「この戦争は本来は日本に理はない。しかしヨーロッパの列強が奴隷搾取の制度をとってきた地域であるが、この戦闘はこれを打破したと私は思う。」

 その後龍丸は破損した飛行機から部品を取って、機体の再生を試みる。四機完成させたので、これでレイテ島の米軍に奇襲攻撃をかけ戦果を上げた。この後米軍の無線を傍受し、「ファントムジャパニーズ ファイターズチーム」と言う言葉を聴いた。米軍もなかなかユーモアがある。

 その後龍丸一人に転属命令が降る。手記にはこう記されている。 「また脱出命令くる。誰か我が苦衷を知るや。ただ天知るのみ。天運、天道に従はんのみ。」

 その後米軍は島に上陸、飛行第31戦隊の残りの兵は山中に逃げる。湿地帯で食べ物もなく、半年間で63人が死亡する。龍丸は迎えに来た飛行機でサイゴンに逃げたらしい。

 終戦後龍丸は実家の農園で働いていたが、ある日のこと僧侶になっていた佐藤浩氏と遭遇し、飢餓に苦しんでいるインドから留学生を受け入れてほしいと言われる。龍丸は留学生を受け入れ、農業、織物、陶芸について学んでもらった。帰国した弟子たちにインドに招かれた龍丸は、インドの風景を見てこう記している。 「見渡す限り地平線まで乾ききったインドの大地に奴隷解放で放り出された人々にどうして生きていけと言うのか」

 龍丸はインドに5ヶ月滞在し砂漠化を防ぐ方法を研究する。そしてユーカリの木を国道一号線に植えるという計画をインド政府に提案する。木が根を張ってヒマラヤの雪解け水が利用できるかも知れないのである。その後インドは大飢饉となる。 

 日本に帰った龍丸は所有する農園と母屋を売り払ってインドに植林することを決心する。士官学校時代の後輩がそれは国がやることでは?と控えめにに進言するのだが龍丸の決意は変わらなかった。「国は何もせんじゃないか」と言うのが龍丸の考えだった。

 10年間もの国道への植林で成果を上げた頃、貯水池周辺の山にも10万本の植林をする。これも自腹の私財と村人の協力で行った。国連、日本政府にも支援を求めたが断られたという。そしてその後、龍丸は最晩年まで植林を続けたのである。1987年死去。享年68歳だった。