東洋文庫 辛亥革命見聞記 (1914)

著者のフェルナン・ファルジュネルはフランス人で社会科学自由学院教授という肩書きがある。本書はインドシナ、中国に滞在中に見聞きした事の証言であるという。

満州人の支配を受けていた中国は建国以来民主主義というものは無かったが、西太后と光緒帝の死後漸くにして、摂政の元で選挙人によって選出された第一回の会議が行われる。1909年9月のことであった。1910年10月には元老院から構成される議会が開かれる。構成メンバーはこのようになっている。以下引用文。

《この元老院である「資政院」は200名のメンバーで構成されていた。40名の親王および貴族、6名の皇帝の傍系の血族、35名の官吏、10名の学識者、10名の富豪、それに100名の地方からの被選出人である。摂政の従兄弟の溥倫親王が議長をつとめていた。》

この会議から二週間経つか経たないかのうちに朝貢国朝鮮が日本に併合されるという事件が起こる。北京は混乱し政府は譲歩する。1913年の国会召集が約束される。

こういった立憲君主制への動きとは別に孫文らによる共和制実現への動きが国外で行われていた。ここへ来て鉄道管理権のヨーロッパ諸国への譲渡問題が起こると、四川で大規模なストライキが起こる。そしてとうとう革命が勃発する。以下引用文。

《ヨーロッパ租界の近代的な建物が河を縁取っている漢口の町と向かい合って、この強大な揚子江ーーここでは幅1キロメートル以上もあるーーのもう一方の岸に、両省を統治する総督の居住地、県庁所在地の武昌がある。

この総督は満州人瑞澂である。

9月30日、彼は間諜たちから、漢口の外国人租界に、謀反人たちが彼の官憲を逃れて多数集合しているという報告を受ける。そして、彼はそのことを、領事団の団長に通告する。彼が何事かを準備したことが感じられる。

それから10日後、恐るべき爆発がロシア租界をゆり動かす。秘密工場で製造された爆弾が、不手際のために爆発したのである。この際に、闘争に備えていた革命派の巣窟が発見される。総督は二人の革命派の首を斬らせ、その首を持って町を歩かせる。疑わしい多数の兵士もまた逮捕され、将校たちの切願にもかかわらず斬首される。

しかし、これらの厳しい手段は、死刑にされた人々の同志である兵士たちをおびえさせはしない。反対に、彼らは立ち上がり、町のすべての満州人を虐殺する。武昌は彼らの手中に落ちる。この日、1910年10月10日、大革命がはじまったのである。》

この解説もとてもわかり易いが、この後の記述は手記になっている。まず著者はフランス領インドシナから鉄道で雲南に入る。途中の状況を目で確かめながら雲南府に到着する。ここをすでに支配している蔡鍔と会見し、もてなしを受ける。

インドシナに戻ると、次にハイフォンから船で香港に向かう。陸路広東に入る。観察の結果、意外にも中国ではフェミニズムが興隆しつつあったという。次いで著者は上海に向かう。港には各国の軍艦と兵士が集結し、租界では秩序は保たれていた。上海ではすでに革命は終了しており、総督に選ばれていた陳其美と会見する。上海では住民の間に根回しが行われており最小限の流血で革命が行われたようである。

この後革命の勃発地である武昌、漢口を訪れ、北京にも滞在する。記事はとても充実しているが長くなるので省略する。