東洋文庫 北伐の途上で他 郭沫若自伝4 (1936)

「北伐の途上で」は1926年の北伐軍による武昌攻略の経緯を政治部NO.2の郭沫若ができるだけ正確に書き残したという回想録である。8月24日長沙に駐屯中に急遽命令により北へ出発することになる。筆者も秘書の李徳謨(リートーモー)と共に列車に乗り込み二時間くらいで汨羅に着いた。そこからは裏道を行軍する。幹部である筆者は馬に乗っている。露天で寝たり民家に宿泊する。ある民家に泊まった時その家を観察し二度の零落を経た主人の行く末はルンペンプロレタリアートだろうと推測する。その晩は南京虫の大群に襲われ目を覚ます。怒った筆者は虫を踏みにじり南京虫帝国を打倒したと息巻いている。翌朝疲弊した馬を民家に預けて徒歩で出発し蒲圻の駅に着く。ここからは軍用列車で北へ向かう事になる。列車は激戦地だった所を過ぎる。その時筆者は多くの死体を目撃する。五時間ほどで咸寧に着くとようやく政治部主任の鄧択生に追いついた。しかし会う間も無く鄧は先に出発してしまう。

そこからは再び自分の部下と共に徒歩で行軍する。今度は地雷に注意しながら線路沿いを行く。北軍兵士の死体が転がる中だんだん前線に近づく音がする。賀勝橋に至り民家に泊まる事になる。咸寧では店の食糧が尽きており豆腐乾しか食べていない筆者はお腹が空いておりご飯は食べられたものの自分たちにはおかずが無かったという不満を漏らしている。丸一日行軍して武昌の手前の紙坊に着く。ここでも炊いておいた粥が後から来たもの達に全部食べられており筆者の怒りが爆発する。「国民革命か!こういう便乗屋のエセ紳士たちを新しい官僚にしてやるだけじゃないか。」と心で思ったが口には出さなかった。

武昌の入り口で鄧らに追いついた。まだ入城しないのは劉玉春率いる北軍が居るからである。砲弾が飛んでくる。突撃は諦めて南湖文化大学に事務所を置き宣伝活動を準備する。その夜は洒落た洋館に呼ばれ鄧ら中枢部と再会しもてなしを受ける。この時食べた清沌鶏(チントンチー、鶏のスープ煮込み)の事を今でもよく覚えて居るという。

その夜、闇に乗じて40の梯子を用意して奇襲をかける事になった。だが敵が待ち構えており失敗する。誰も帰ってこないので筆者は不安になり周恩寿(周恩来の弟)らと共に偵察に行く。鄧らは長春館にいた。その日は引き揚げる事になり小さな村に寄ってみるとそこには総司令部がやって来ており蒋介石の姿も見えた。張飛に例えられる張発奎もいる。

さらに4倍の梯子を用意して夜襲をかけるがそれも失敗する。この戦いで紀徳甫が銃弾を受けて戦死する。遺体は大学に運ばれる。筆者が検屍し追悼の漢詩を詠んだ。翌日遺体はお寺に運ばれ葬儀が行われた。紀徳甫は山東省出身でロシアに留学した共産党員だったという。北伐軍は国民党右派、国民党左派、共産党の混成部隊なのである。当時の郭沫若は国民党左派と言って良い。

政治部は長江を挟んだ向かい側の漢口に拠点を移す事になる。ちょっとしたトラブルから鄧らと対立した筆者は嫌気がさしたのか辞表を書くが鄧の真摯な説得により辞表を撤回する。漢口で活動を続けるうちにとうとう武昌が陥落する。劉玉春も生け捕りにした。武漢三鎮を制圧した革命軍は江西の攻略を進める事になる。筆者らが政治工作の使命を帯びて船で九江に向かうところで回想録は終わる。