東洋文庫 西学東漸記 (1909)

本書は容閎(1828ー1912)による自伝である。端的に言うとこのような人物である。

《しかし、なぜ両親が外国人の学校なぞへ私を入れる気になったのか、いまもって私には不可解だ。(略)男の子の一人に英語を習わせておけば、高級通訳になれる。あるいはもっと有利な職を得て、将来外交界あるいは実業界で立身出世することも可能だと考えたのではないだろうか。》

不可解と言いながら自分で答えを出している。清国の聡明な少年がそのまま大きくなったような人物である。

容閎はマカオにあるギュツラフ夫人の学校に7歳のとき入学、その後渡米し、モンソン・アカデミーで二年、イェール大学で四年学び、在学中に帰化している。その後帰国して活躍するが最晩年に米国に 戻りハートフォードで逝去している。

活躍といっても日本の森有礼らのように真に国に貢献できたわけではなく、留学生事業や興中会の資金集めなど頓挫したものが多い。少しその内容を紹介する。

《中国の文語と口語との再学習をしながら広州で暮らした六ヶ月の間に広東省は多少秩序の乱れた状態に陥った。広州の町の民衆が広東省内で暴動を起こそうと企てたが、これは当時中国の中央の地域ですばらしく発展していた太平天国の乱とは全然関係のない反乱だった。この反乱が拡大されないうちに、その芽をつみ取ってしまおうとした総督の葉名琛は一八五五年夏、七万五千人の人間の首をはねるという思いきったきびしい手段を講じた。聞くところによるば、これらの人々の大部分は全然罪のないものだったという。前に書いたように、私の住んでいた場所は刑場から半マイルと離れていない所にあったので、好奇心に駆られたわたしはある日思い切って刑場まで行ってみた。ああ、何たる光景か。刑場はまったく血の海である。》

容閎はこの事件の真相について考察しこれは復讐と財産没収目的の虐殺だろうと述べている。またこの人もリンドレーのように太平天国の幕下を訪れて洪秀全の弟と面会している。また曽国藩に呼ばれて機械工場の機械の購入を任されるなど重用された。あとは先に述べた通り米国滞在中に中国の情勢が悪化したので中国に戻らず、自伝を書いたりして余生を送っている。 まあこれは各場面で革命に身を投ずることを著者が避けた結果だろう。とても賢明な選択である。