東洋文庫 金谷上人行状記 ある奇僧の半生

本書は僧侶で画家の横井金谷(1761ー1832)の自叙伝の現代語訳である。イギリスのドキュメンタリーに倣って、近江国七歳になりました風に書く。

横井金谷7歳。近江栗太郡下笠村在住。父横井小兵衛時平と母の間に生まれる。8ヶ月の早産であり早松の幼名をもらう。琵琶湖の魚捕り、木登りが大好きな自然児であったという。9歳になると大坂の宗金寺に修行に出され、住職である叔父に厳しく鍛えられることになる。悪行ばかりの毎日で、11歳の時商人の娘と結縁したという。折檻を恐れた金谷は奈良方面に出奔し、お伊勢参りの団体について行ったりして近江の草津にたどり着く。だがそこで追手に捕まり大坂に戻された。

14歳、江戸に出て芝増上寺に着くと所化の末席に入ることを許され、修行を開始した。だがこれも輪をかけた悪行の所為で出奔した末の事である。修行に邁進し名僧になった気でいる金谷だがほどなく品川、深川で女遊びを始める。ある日のこと、寺を訪れた勧進比丘尼を手篭めにしようとして失敗した金谷はついに破門され上総に流れて行く。しばらく製塩をしていたがある日のこと農家に夜這いしこれも失敗、下総に流れて行く。

21歳、いろいろあったがついに北野金谷山極楽寺の住職になる。一山のあるじである。 ところがしばらくするとまた悪行が始まる。五番町で遊蕩し、浄瑠璃の稽古に精を出す。檀家たちは仰天し、老師を呼んで言い聞かせると今度は虚無僧になって洛中洛外を笛吹行脚する。そうするうちに今度は京都で流行した博打に入れ込んでその世界の顔役になってしまう。次いで凧揚げに夢中になり子供らと凧揚げに興じるのである。

どうしてこうなったのか。本人はこう語っている。以下引用文。

《古語にもいわずや、英雄こうべをめぐらせばすなわち神仙と。》

月日は流れて49歳になった。金谷は思い立つと願書を出し山伏になる。寺を買い取って山伏道の故実の勉強を始める。上洛するとまず参殿し、「御斧役。尾州大宝院」の役を賜ると三条室町の御装束師脇坂善左衛門の店へ行き、萌黄の鈴懸、摺の袴、剣前、脚絆を購入する。かくして準備万端整って総勢五千人の両御門主の御入峰が始まり、実況風紀行文が詳細に綴られる。4ヶ月もの長旅を終え、黙って出た気まずさもあるが尾張に帰って来た。

尾張に居づらくなったのか最後は富士登山を決行して半生記を終える。以下引用文。

《こうしてしばらく名古屋住まいをつづけたが、「中々人間世界は事繁くして行者の心に叶はず」翌年寺社役所にあずま下りの願いを出した。》

中々凄い事が書いてある本である。