失われた時を求めて(53)

祖母の具合が一段と悪くなってきた。おなじみの牛乳療法、その頃普及して来た水銀体温計、各種解熱剤について論評のようなのが続く。さらにコタール、ドクター・デュ・ブルボン、シャルコという錚々たるドクターについて論評する。何故かその論評の口調たるやシャルリュス氏そっくりである。

ともあれ彼の医学に対する持論はこのようなものである。以下引用文。(吉川一義訳)

《畢竟、医学とは、医者たちがつぎつぎと犯す矛盾した誤りの集積であるから、どんな名医を呼んでも、たいてい数年後には間違いとわかる診断を真実として求めるはめになる。それゆえ医学を信じるのは愚の骨頂ということになるが、それを信じないのもそれに劣らぬ大愚というべきで、というのもそんな誤りの集積から最終的には真実もいくつか出てきたからである。》

祖母の主治医はコタールだが、プルーストが頼み込んで神経科の権威デュ・ブルボンの往診が実現する。この場面は特に詳しく書かれており本作の白眉といえる。デュ・ブルボン氏の風変わりな診療中の会話を示す。以下引用文。(吉川一義訳)

《「(略)さきほど神経症なくして偉大な芸術家なしと申しましたが、それに加えて、」とデュ・ブルボンは人差し指を厳かに立てて言い添えた、「偉大な科学者もなしです。さらに申し上げるなら、みずから神経症を病むことがなければ、神経症のあえて名医とは申しませんが、まずまずの医者にもなれません。神経症病理学であまり愚かなことを言わない医者というのは、神経症のなおりかけた患者なのです、まあ、批評家が詩を書かなくなった詩人であり、警官が盗みを働かなくなった泥棒であるのと同じでしょう。」》

最後の章には祖母の臨終の様子を記している。大往生である。