東洋文庫 蒲寿庚の事蹟 (1923)

これは京都帝国大学教授の桑原隲蔵(くわばら じつぞう)氏による研究書である。蒲寿庚(ほじゅこう)とは宋末期に実在した泉州の市舶使でアラビア人であると推定されている。本論は、一 大食人の通商、二 支那居留の大食商賣、三 広州居留の蒲姓、四 蒲寿庚の事歴(上)、五 蒲寿庚の事歴(下)から成るが、蒲寿庚についてわかっていることはごく少ない。

明の『閩書』巻百五十二に、

蒲寿庚其先西域人。・・・・寿庚少豪侠無頼。咸淳末。与其兄寿晟平海寇有功。累官福建安撫沿海都制置使。景炎元?年授福建広東招撫使。総海舶。

とあり、『泉州府志』、『大明輿地名勝志』にも同様の記述があるという。こんな感じで断片をつなぎ合わせ書いたような本文から一部を紹介する。

《蒲寿庚の一家は、その父蒲開宗の時代に、広州から泉州に移住したが、最初の間はさほど豊かな生活を営んだものと想像出来ぬ。ところが蒲寿庚の時代に南海名物の海賊が、泉州を襲うて略奪をやったことがある。大胆なる蒲寿庚はその兄の蒲寿晟と協力し、支那官憲を助けて見事にこの海賊を撃退した。これが彼の出世の端緒で、宋の朝廷に登庸されて、ついに泉州の提挙市舶となった。》

著者は蒲寿庚が30年間提挙市舶の地位にあったことから、莫大な財産を築いたものと推定し、さらに元側に寝返った経緯について述べている。

《ことに船舶や軍資に不足勝なる宋軍は、泉州において蒲寿庚所属の船舶資産を強請的に徴発したゆえ、蒲寿庚は大いに怒って、その年の十二月に断然元に降り、宋に対して敵対行動をとることとなった。》

かくして蒲一族は元の時代にあってもその地位を保ち栄えたが、民には嫌われていたという。明の時代になると元と関係が深い蒲一族は登用を禁じられ没落した。

また蒲寿庚が元寇の際に協力した記録が残っている。

福建省左氶蒲寿庚言。詔造海船二百艘。今成者五十。民実艱苦。詔止之。(『元史』)