東洋文庫 知恵の七柱 (1926)

序文を読んでいて気づいたが「アラビアのロレンス」はロレンスの親友が書いたもので、「知恵の七柱」はロレンスが書いたものなのだった。ロレンスはこの本のことを《自己中心的な写し絵》と表現している。

第一章から一部紹介する。

《私はこのようなアラブ人の中に、彼らの考え方を理解することも、また彼らの信仰を理解確証することもできないまま外来者として送り込まれたのであったが、ただ義務として戦時イギリスの利得となるように彼らアラブ人を導いて、彼らのいかなる動きをも最高度に展開するようにという責任を負わされのであった。(略)私の場合は、幾年かの間アラブ人の衣装を着て暮らし、そして彼らの心的な基礎を模倣しようという努力は私からイギリス人という自己を放棄させ、西洋およびその環境を新しい目で見させた。つまり彼らは私のために私の西洋をことごとく滅ぼしてくれたのである。それでも私はなおも心からアラブ人の皮膚をつけることはできなかった。あるのは、ただみせかけだけであった。》

これがロレンスのスタンスだが彼の話には総括のような抽象的な表現が多く、その中に現実が散りばめられている。例えばこんな記述である。

《このような人生への離脱感は、長期にわたる肉体的努力と孤独のため疲労困憊した人間に時おり訪れてくるものなのである。彼の肉体はごそごそと機械的に動くけれども、一方理非をわきまえる心がもう彼から抜け出してしまい、このやくざながらくたがやったことを、またそれをやったわけをいぶかりながら、彼を批判的に外部から見下しているのである。》

彼が体験したこの状態は離人症の症状そのものだ。続いて第二章からもう少し紹介する。

《(略)バスラの南の平坦な沿岸地帯はクウェートおよびハサーと呼ばれ、カタールにおよんでいる。この平原はだいたい人間の住家となっている。こうした平原は乾燥した砂漠の湾を縁どることになり、この砂漠の真ん中にカーシムやアリードなどといって、水もあり人煙も立ちのぼるオアシスの群島ができている。この群島にアラビアの中心があり、またここにその土着本来の精神とその最も純粋な個性の保存を見るのである。砂漠はこれを錬磨し、ほかとの接触を防いでその純粋さを保持させたのである。》

イエメンあたりの記述がある。

《このオアシスの南方では砂漠は通路のない砂の海原の様相を呈し、ほとんどインド洋岸の人の居住する斜面まで伸びていて、アラビアの歴史からアラビアの精神と政治から遮断されていた。通称ハドラマウトとこの南方地域はオランダ領インドの歴史の一部となっていた。そしてここの考え方はアラビア風というよりはむしろジャワ風が支配的であった。この地域とヒジャーズ丘陵地帯との間にはネジェド砂漠が広がっているけれども、これは砂利と溶岩の地帯であり、そこには砂があまり見られない。このオアシスの東方、ここからクウェートとの間には前の場合同様砂利の広がりがつづいているけれどもまた軟らかい砂原が広がっていて、そのため道路の建設が困難となっている。オアシスの北方には砂原が帯状に連なりつづき、やがて砂利と溶岩の果てしない平原が広がり、シリアの東辺とメソポタミアのはじまりとなるユーフラテス河の川岸との間のいっさいを埋めつくしている。》

ヒジャーズ丘陵地帯はメッカやメジナを含み歴史も古くイスラム発祥の地でもある。ロレンスの文章から読み取れるのは彼がとても博学であるという事だが、長くなるのでこの辺で。